コラム

2017.12.04

壬生六斎中興伝(5)

五 岡村氏の企画実行力

 六斎の行事は盂蘭盆会の行事に集中し、壬生六斎の場合は、新暦8月9日の精霊迎え火(しょうらいむかえび)、その一週間後16日の精霊送り火(しょうらいおくりび)、さらに一週間後23日の地蔵盆に、それぞれ壬生寺本堂にて一山打ち(いっさんうち)を行い、13日から15日にかけては棚経をします。これらも昭和13年(西暦1938年)以降は休止していましたが、講中再結集後から順次再開していきました。

 そうして数年も経つと、年若い入会者も増え、青果店壬生太の兄弟や、後に会長となる林氏をはじめとした子供らも入って、講中はますます賑やかになっていきます。昭和20年代後半のことです。


浴衣の違う3名が年寄衆。左から浅井音次郎氏、佐竹氏、若林氏。その右が上田博一氏。
前から三列目、一番左が岡村氏、一人飛ばして根角氏、また一人飛ばして平野氏、右端が建川氏。
最後列は左から堀氏、浅井光三氏、吉江氏、岩見氏、棒振りの衣裳の西野氏。
※大人のみ紹介。子供(当時)は省略。

 ただ、これで往時の通りかと申せば、果たしてそう易々といかないわけで、大人達はほぼ新人、前述の通りほとんど自分達の稽古で精一杯という有り様で、子供らの指導まで手が回らず、この世代の子達は林氏以外あまり長く定着しませんでした。このことは後の課題となります。

 また、その大人の新人達にしても、上記年中行事だけで、すなわち一定期間数回の出演だけで早期に上達せよというのは中々酷な話でした。やはり人前で披露する場数を踏んでこその上達です。そこで、重要になってくるのが出張出演の舞台。そもそも、六斎はお盆の時期以外にも各所へ出向いて演じるのが習わしで、その意味で出張は伝統に沿った活動なのです。とはいえ、そう都合よくポンポンと出演依頼が舞い込むわけではなく、まして、休止期間を挟んでの当時ですからなおさらでした。

 そこで、若手年長者達は自ら売り込むことを考えます。と言っても、営業をかけるのではありません。無償で奉仕をしました。最初の内の行き先は、市役所の窓口で、こういう奉仕をさせてほしいと申し出、紹介してもらいました。例えば孤児院へ。講中の岩見芳一氏は駄菓子を商っていましたが、それを六斎の道具と一緒に台車へ積んでいき、子供達に配りました。お菓子と六斎、これは大変喜ばれました。

 お金を貰わなかったのは、今欲しいのはお金ではなく六斎を演じられる場所、だったからに相違ありませんが、率直な所、お金を取れる実力ではない為でもありました。実際、若手だけで行った最初の出張は散々な失敗で、「もう少し出来るつもりでいた」のが、完全に鼻っ柱を折られる結果となりました。

 しかし、彼らはそれに心折れることなく、むしろ奮起して出演を続けます。すると、その甲斐あって口コミで評判が広まり、次第に「うちにも来てほしい」とお声が掛かるようになっていきました。それから出張出演は軌道に乗っていき、やがては出演料も頂いて講中の活動資金に充てられるようになっていきます。後の世代が安定して出演依頼を受けられるようになったのも、ひとえに彼ら中興世代の地道な努力があったればこそでしょう。

 ちなみに、この世代が在籍していた当時で最も遠い出張地は秋田県であり、この移動距離記録は我が講中においていまだに破られておりません。当時は鈍行列車で気の遠くなるような時間を掛けて赴いたそうです。また、この時の舞台に合わせて、初めて足袋を着用しました。それまでは裸足で演じるのが常でした。

 ところで、こうした出演ないし奉仕に際して、いつも講中の窓口となり話をつけてくる役割の人がおりました。それが岡村正一氏です。先の奉仕活動の時も、企画提案し、その実際の道筋をつけてきたのが同氏でした。そもそも、稽古の日取りから場所の手配、年寄衆への連絡等、普段から事務的なことを率先して引き受けてきた人です。

 岡村氏は、上田博一氏と同級生で、その勧誘によって入会。この時三十歳。他の多くの新会員と同様、彼もまた六斎について門外漢でした。会社勤めをしており、この点自営業の多い講衆の中では異色です。技術的には「どんくさい」という評判が専らで、お世辞にも芸達者ではありませんでしたが、それは本人にも自覚があったらしく、あまり積極的に舞台に立とうとはしませんでした。しかし、浅井氏・根角氏口を揃えて言うことに、「頼み込んで、入ってもらった」という言葉通り、欠くべからざる存在感で講に貢献します。

 それが先述の通り、雑務一般から企画営業まで、という点に表れていますが、もっと言えば、けんかの仲裁役もしていました。あまり大きな声では言えませんが、上田博一氏と浅井光三氏は折り合いが悪く、事ごとに衝突が絶えませんでしたが、例えば、こういう若手同士の諍いをなだめるような人格を岡村氏は有していたわけです。余談ですが、博一氏と光三氏は「祇園ばやし」の太鼓でコンビを組んでいましたが、この時ばかりは息がぴったりで、傍から見れば「あんなにいがみ合っていたのに」とあきれる程でした。漫才師のような両人です。

「祇園ばやし」と言えば、それを若手メンバーで習得した後、綾傘鉾の町内へ行って奉納しようと企画したのも岡村氏でした。壬生六斎の同演目が両傘鉾の囃子と踊りを継受したものとは、浅井音次郎氏などから聞かされており、また知る人ぞ知る事実ではありましたが、これに着目し、実際に町内まで行って話を通してきたものです。この頃、四条傘鉾は影形もなく、綾傘鉾は焼山として宵山に辛うじて飾りを見せる程度でした。よって、四条傘鉾を訪ねることは困難でしたが、綾傘鉾にはまだ関係する人が居たので、その僅かな縁を頼ったものです。

 当日の演者は、太鼓が上田博一氏と浅井光三氏、鉦が岩見氏、笛が堀氏と根角氏、棒振りが西野氏という最小限の構成。岡村氏は後見となっており、例によって前には出ません。壬生村と綾傘鉾の関係を裏付ける史料として「祇園会細記」がありますが、その中の記述、囃子方が壬生村より来るのは「七人これ有り」と奇しくも同一の人数となりました。なお、この時演じたのは“壬生六斎の”祇園ばやしであり、太鼓は締太鼓ではなく六斎の太鼓です。

 この企画は、浅井光三氏のメモによると昭和29年のことですが、2度程行った記憶があると、同氏及び根角氏は語っています。残念ながら、これ以降継続することはありませんでしたが、記録上70年途絶えていた綾傘鉾の祇園囃子を久しぶりで町内に響かせたことにはなりました。

 岡村氏はほかにも、楽器の修繕手配を担当していました。特に太鼓の皮は使う程に弱りますから、定期的に張り替えが必要です。その発注を引き受けていたのでした。また、衣裳や道具に関しては、多少の事なら自分で繕ったそうです。とかく、メンテナンスについては彼の専売特許となりました。

 中でも功績の大きかったのは、鉦講の教本を製本し直したことです。鉦講は念仏六斎を奉じる集まりですが、その際唱える歌の文言を記した教本がありました。しかし、その損傷はひどく、鉦講の記憶と共に散逸する寸前であった為、これをまた岡村氏が手配して、新たに作り直したのです。実際のところ、壬生の鉦講が存在したことを示す物証はほとんどこれのみとなっており、彼の機転によって一つの文化財が救われたのでした。

 このように、縁の下の力持ちの如く講中を支えてきた岡村氏ですが、その最たる功績は人を育てたことかもしれません。昭和30年代に入ると、また新たな世代が入会してきますが、そういう小さな子達の面倒を、今度は率先して見たのです。前述のように稽古場において、大人達はまだ自分のことで手一杯な中、結果的に自分があまり演目に出ない岡村氏は、子供達の指導に自ら回ることとなりました。その子達の中から、池田氏、惠阪氏、そして上田博一氏の長男・勝己氏という、後々に講中の屋台骨を担う伝承者が現れるのです。

2017.11.09

壬生六斎の旅:谷汲山華厳寺

壬生六斎に所縁のある地を巡る特集「壬生六斎の旅」。
5回目となる今回も、例によって「飛観音」に登場するお寺を訪問しました。

別に飛観音だけに拘るつもりはなく、ほかに関わりのある場所も既に旅してはいるのですが、この歌に登場する札所も残す所2カ所のみとなりましたので、この際優先して片付けてしまいます。

さて、この度は西国三十三所観音霊場の三十三カ所目、満願の寺、谷汲山華厳寺(たにぐみさんけごんじ)です。
“飛”観音のダイジェスト感は凄まじく、5つめの札所にして早くも満願となりました。

当地に伝わる御詠歌には、

万世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出る谷汲
今までは 親と頼みし 笈摺を 脱ぎて納むる 美濃の谷汲

というのがあり、飛観音では上記2首を組み合わせたような形になっていて興味深いです。

昨日今日まで親と頼みし笈摺を みふだ納め申すよ 水は苔より出ずる谷汲

“笈摺(おいずる)”とは、巡礼者が身に着ける白い衣のことで、満願霊場の当寺にはそれを納めるお堂があります。

閑話休題、突然ですが、皆さんは真の闇を見たことがありますか。
あるんですよ、それ、このお寺に……
あれは、わたしが境内一通りの参拝を終えた時でした。
ご本尊の前に戻りまして、ふっと脇を見やると、左の方に下へ降りる階段があるんですね。
入り口横にはお盆がありまして、そこに百円を置くように指示してある。
ははあ、これは何かの趣向だな、と、好奇心をくすぐられるのが人情でして。
係の人も誰も居ませんでしたが、わたしはちゃんと百円玉を置いて、トトトッと降りた。
すると、どうでしょう、一歩、二歩、三歩、四歩、と進む内にどんどんと辺りが暗くなる。
五歩も踏んだ頃にはもう文字通りに、お先真っ暗。
もう少し行ったら、何かあるんじゃないかと我慢してみますが、どこまでも暗い様子なんです。
ともすると、これは灯りを点け忘れたのじゃあないか、まだ開店前なんじゃないかと勘繰りましたが、
だとしても、話のネタにはなるだろう、むしろ、こっちから引き下がるのは癪だ、と意地にもなりまして、
構うことなくズンズンと前進していった。
まだ入り口の光が届く内はいいんです。でも、そんなものはすぐになくなる。
そうすると、本当になんにも見えなくなるんですね。
わたしは、目は利く方なんですが、どんなに目を凝らしたって真っ暗なんです。
世の中、闇夜に部屋を閉め切って灯りを消していたって、どっかから光は漏れているものでして。
真の闇なんてものが、この世にあること自体、知らない人が大勢いるんじゃないでしょうか。
ともかくも、頭を打つんじゃないか、いきなりぶつかるんじゃないかと思うから、屈み加減で一杯に手を伸ばしながら歩く。
しかし、そもそも天井に手はつかない、その内、伝っていた壁にも指先が触れなくなる。
そうするとねえ、もう自分がどこにいるのか、今何時なのかも分からなくなるんですよ。
感覚が滅するというのでしょうか、自分の体も見えないものだから、己の存在さえ実感出来なくなる。
あれも闇、彼も闇、闇、闇、闇の世界でただ一人、いや、その一人も本当に居るのかどうか。
本当は誰も居ない? 最初から誰も居ない。
ああ、そうだ、ここには闇があるだけで、いや……闇を闇と認めているのは誰だ?
誰だ……誰だ……? ダレモ、イナイ………………?
――それからというもの、彼の姿を見た人は居ないということです。
ひょっとしたら、彼は今も、闇の中を彷徨い歩いているのかもしれません、鈍く光る百円玉だけをこの世に残して。
え? “わたし”って言っていたじゃないかって? この文を書いているのは誰かって?
あなたが今見つめているモニタ画面の電源をちょっと消してご覧なさい。
ほら、そこに映っているでしょう? その真っ黒な中に……ほら……? ほら?

ホラです。戒壇巡りに予備知識なく入ったというだけの話です。
戒壇巡りとは、真っ暗なお堂の下を歩いて、ご本尊と縁を結ぶ修行の一種です。
ちなみに、この後に善光寺でも体験してみましたが、あちらは人の大行列の中を進むので、全然怖くなかったです。
このお寺で真の闇体験が出来たことは、まさしく幸運でした。

谷汲山華厳寺へは、樽見鉄道「谷汲口」駅下車、駅前のバスに乗って10分位で、参道の入り口に着きます。
参道は1km程度あって、両脇にお土産屋さんが立ち並んでいます。
仏具関係のお店が多かったように思います。
樽見鉄道は、JR構内から乗り換える線で、ワンマンカーが大垣駅ホームの一画に可愛らしく停まっています。
余談ですが、「モレラ岐阜」という謎な駅で親子連れから中高生から、とにかく大半の乗客がごっそり降りてびっくりしました。
調べたら、大型ショッピングモールの名前がそのまま駅名になっているようです。
この辺りの人は、ここしか行く所がないんじゃないか、と思う位の盛況ぶりでした。

帰りに大垣駅で下車して寄り道。
お祭りがあるみたいでした。

分かる人には分かると思いますが、今回の旅、この更新日より結構前に行っています。
次回は、信濃の善光寺です。

2017.10.16

壬生六斎中興伝(4)

四 六斎ことはじめ

 新会員が稽古場に行くと、床にバチ、鉦、新品の笛が並べられており、その中からどれか取れと言われました。六斎踊りの楽器構成上、大半を占めるのが太鼓なので、ほとんどがバチを取り、行きがかりで堀氏と根角氏が笛を取ることになります。旧知の仲である両氏は共に行動することが多く、この後も、獅子を二人で担当したりすることになります。

 さて、六斎伝承の要は歌ですので、稽古はまずその習得から始めます。仮に旋律だけ覚えた、太鼓だけ覚えた、という人がいたとしても、ほかの人と合わせられなければ出来たとは言えません。先人に言わせると、「一人でやってんのとちゃうんやからな」ということで、手前勝手に覚えたことだけ吐き出しても合奏の態は成さない。歌はいわば、見えない“指揮者”の役割として機能してきたわけです。

 初めに歌を教えたのは、上田源次郎氏、浅井音次郎氏、佐竹藤三郎氏でした。特に佐竹氏は、「四ツ太鼓」から何から全般を教授しました。とはいえ、授業は決してスムーズに進んだわけではありません。師範が歌を歌いますと、聞いている方は途中で分からない点が出てくるので止めます。すると、その箇所だけを歌うということが師範には出来ない。年齢的な問題もあったのでしょう。結局また、頭から歌い出す。やはり聞き取りづらい所が出てくる。すると、また頭から……と、きりがない位何度も同じことを繰り返しました。その間、メモを取ったり、オープンリールのテープに録ったりと工夫をしましたが、相当に時間は掛かりました。

 浅井家にて音次郎氏に歌を習っていた折、例によって何度も何度も同じ歌を聞いていると、生徒の一人だった浅井光三氏の、年の開いた弟が、まさに習わぬ経を読むように、大人達を差し置いて早々と覚えてしまったこともありました。懸命に稽古している兄の横で、頭の柔らかい子供が独りでに歌を口ずさんでいたのです。ちなみに、この子、勝治氏は、長じて六斎に正式加入し、今度は自分が子供達に歌や太鼓を伝授する立場となりました。

 ともあれ、歌を覚えなければ始まらないということで、とりわけ六斎にこれまで触れてこなかった人には特別訓練が必要でした。根角氏などは、仕事中にも歌を口ずさみ、「お前、何ブツブツ言うてんのや」と、笑われたりもしました。それでも、本当に覚えようと思うと、稽古場だけで足りるはずもなく、むしろ家に帰ってから、日常的にどれだけ反復するかが勝負になります。そして、それをまた持ち寄って、皆で合わすように稽古するのです。こうした取り組みは時間が掛かるようではありますが、一度その節、間、調子が体に染み込んでしまえば、容易く合奏を成功させられる為、非常に機能的です。逆に、歌を共有していない人とはいつまでも調子が合わないものです。

 歌を覚えると、続いて、楽器の習得に移ります。といっても、ここまでで歌が体に入っていたら、それ程時間の掛かることではありません。先達はよく「歌の通りやるだけや」と口を揃えますが、まさしくその通りで、太鼓も笛も鉦も、その点は大差ありません。後は、出来ることを上手く表現し得るようになるかという、そこから個人の技量の話になってきます。

 太鼓は、やはり歌を歌いもって、竹の切れ端をバチとして、板などをペシペシ叩きながら稽古します。歌に手を付けていく感じです。例えば、「海士の衣も」という節に対して、「テンテンテントコトコテンテン」とバチを動かすのです。これも普段の練習が物を言うので、浅井光三氏は日頃から指先で膝を弾いたりして、手に癖をつけていたそうです。

 なお、曲によっては、太鼓の役割に、先に打つ“オモテ”と後に打つ“ウラ”の別がありますが、初めにどちらを担当するか決めて、出来れば二人一組で稽古するのが良いとされます。稽古の段階で結局どちらも出来るようにはなりますが、とっさの時の打ち損じを減らす為です。オモテは出の音を司るので走らずきっちりとペースを作るように、ウラは遅れないようにすかさず入ってとどめの音をきちっと分かりやすく決めるように、と、後進は指導を受けました。

 笛は、音を出すまでにひと苦労ありますが、出せれば後は歌の通りに吹きます。堀氏と根角氏は、当時唯一の吹き手であった若林清次郎氏に師事。その運指を学びました。もっとも、入れ歯だった若林氏、稽古中はスースー、スースー言うばかりで、音が鳴っているやら何やら分からないこともしばしば。弟子達は難儀したそうです。二人の弟子の内、根角氏は技巧的で飾りの多い音色を好んだのに対し、堀氏は実直に精緻な節回しを心掛けており、右利きの根角氏、左利きの堀氏の構えの違いも相まって、好対照を成しました。

 ところで鉦は、「祇園ばやし」を除けば二丁吊りだけになりますが、これは習うものではなく、他の楽器、就中太鼓を経験した人に担当が回ってくるもので、全体のことをわきまえている人が、演奏の調子を合わせる目安を示す為に鳴らすものです。したがって、他所の講でも概ねそうかと存じますが、比較的芸歴の長い方が担当されます。演奏の際は、これもやはり「歌の通りに」ですが、要所要所で特徴的な固定の叩き方がある一方で、事細かな指示があるではなく、それよりも歌に沿って調子よく、それでいて太鼓や鉦に合わしにいくのではなく、独立した基準として叩くべしとされました。

2017.10.14

壬生六斎中興伝(3)

三 中興世代集結

 根角栄一氏は戦時中、学徒動員によって国鉄の運輸・運搬部門に所属し、機関車の中で労働をしていました。業務は過酷で、物資の乏しい時勢に真っ当な石炭はなく、現場に届けられるのは粉炭と呼ばれる粉々のものばかり、それも雨で濡れると燃えないので機関車が動かない、すると上役の機関士から怒られる、ハンマーで小突かれる、ただでさえ重労働の上にそんな八つ当たりをされてはたまったものではなく、氏はとうとう勤務をボイコットし、残された月給も貰わずじまいに終戦を迎えました。

 それでも命が助かっただけ良かったと言えるでしょう。同級生には中学生にして戦地へ赴いた者もおりましたが、結局誰も帰ってきませんでした。そう考えると、兵役に行っていた上田博一氏(こちらは学徒ではなく、成人として徴兵されたもの)は、非常に運が良かったわけです。ご本人やご家族にとっては勿論の事、その後の壬生六斎にとりましても。

 さて、終戦後、家業の染物屋を継いだ根角氏は、向かいで張り物屋をしていた堀啓三氏からある話を持ちかけられます。堀氏は根角氏と同級生。子供の頃から親しかったわけですが、彼が言うには、壬生六斎が新会員を募集しているので一緒に行こうとのこと。父親が町会長をしていた加減で、そういう地域活動の話が早く耳に入る立場だったのです。結果、根角氏は、堀氏に誘われて六斎を始めることになりました。

 しかし、当時の根角氏、六斎の“ろ”の字も知りません。見たことも聞いたこともありませんでした。父が広島から当地に移り住んで独立した家柄、壬生の事情には疎く、また伝統事に殊更関心もない家だったので、つい大人になるまで見過ごしていたのです。堀家もまた代々六斎に関わってきた家ではありませんで、似たようなもの。完全な新人組として、未知の世界に足を踏み入れた形となりました。

 そこで出会ったのが、浅井光三氏。歳は同じですが、学区が違うのでここで会ったのが初めてでした。壬生川通を挟んで当時東側は郁文学区、西側は朱雀第三(朱三)学区に分かれており、郁文学区の根角家と朱三学区の浅井家は、ほんの30メートル程しか家が離れていないのに顔も知らない仲だったのです。この浅井家は先の二人とは違い代々壬生六斎を継承してきた家系。戦争が終わり、心機一転六斎再開という段になって、成人になりなんとする光三氏が満を持して入会した格好です。浅井家は青物や乾物を商っていましたが、三男の光三氏は当時宮大工をしていました。

 光三氏にも一緒に入会した同級生がおりました。岩見芳一氏です。岩見家は浅井家の並びの家で、同じ町内。芳一氏は家を出て、円町でタバコ屋(駄菓子屋)を営んでいました。同級生繋がりで言うなら、上田博一氏に勧誘された岡村正一氏も同様。当時会社員でした。このほかに、漬物屋の出で、後に薬剤師となる西野氏がいました。世代順で言うと、上田博一氏、岡村氏、そこから一回り下の浅井光三氏、岩見氏、根角氏、堀氏、そして西野氏ということになり、この七名が新世代の中核となって、新壬生六斎を牽引していくこととなります。

 そして、その少し下に、吉江氏、建川氏、片岡氏、平野氏が続きます。かくして、昭和22年(西暦1947年)までの1、2回の募集で、壬生六斎の中興メンバーはほとんど揃うこととなりました。

2017.08.25

平成29年 京都の六斎(2)

8月23日(水)は嵯峨野六斎の奉納がありました。
場所は、右京区嵯峨野宮ノ元町の阿弥陀寺です。
ここは住宅地の中にある、観光地的でないお寺ですので、知らない方はたどり着けないと思います。
私も初めて訪問した時は、道を尋ねたり、またその人が知らなかったりして難儀しました。
京都市バス「生田口」で降りるのが最寄です。そのほか京福電車「有栖川」からも歩いて10分弱。
三条通沿いにあるスーパー大黒屋の横の道に入り、小さな橋の手前を右折。後は道なりに真っ直ぐ突き当りまで。
駐車場はありません。


阿弥陀寺

知る人ぞ知る行事で、当然地元の方が観客の中心です。
小さなお寺に入って、しかも靴を脱いでお堂に上がるので、一人だとちょっと入る難易度高いんじゃないかと思います。
しかし、入場料を要求される訳でもありませんし、余所者だからと門前払いもされませんので、ずけずけ入って下さい。


猿廻し

始まる前に御住職のお話があります。相変わらずお元気で安心しました。
それに続き、村の総代さんがご挨拶をなさいました。
今は講と地域の関係もすっかり良好になり、一体となって行事を盛り上げていこうという気運らしいです。


越後獅子

本年は関東や海外からお見えの方もいらしたようです。
遠方からお越しの方は、終わった後も熱心に質問をしていらっしゃいました。


8月25日(金)には長岡天満宮で久世六斎を拝見しました。
長岡天満宮はアクセスの良い大神社で、阪急電車からもJRからも歩いてすぐです。
この日は夏のお祭りでして、露店が所狭しと立ち並び大盛況。
近隣のお子さん達や家族連れが大勢いらっしゃっていました。


祇園囃子

広場に設けられた特設舞台で、午後7時から演じられます。久世六斎の前には、太鼓の団体が出ておられました。
この日の演目は、祇園囃子、四つ太鼓、八兵衛さらし、獅子太鼓、神楽獅子。
一山打ちを見るには、31日の蔵王堂へ行かねばなりません。


八兵衛さらし

広々とした舞台で制約なく演じられそうですし、舞台前には長椅子も置いてあるので見やすいです。
ただ、周囲の喧騒が思いのほか大きいので、ちょっと音の聞き取りづらいのが難点。
仕方がないと言えば仕方がないのですが、もう心持ち音響が良かったらなあ、なんて思いました。
大きな太鼓演奏の時は気にならなかったのですが、六斎の音は、特に笛は、ああいう場では弱いです。


神楽獅子

もっとも、久世六斎の皆さんは、そんなことには関係なく、いつも通り粛々と舞台を務められました。
15名程出られていたと思います。
大変好評でした。


ここで、六斎の公開場所の内、アクセスの便や入りやすさ等を勘案し、見易さを独断で整理してみます。
8月/講名/場所/見易さ
9日/壬生/壬生寺/★★★★★
14日/千本/千本閻魔堂/★★★★☆(分かりやすい場所だが、バスは帰りの便がない可能性あり)
16日/水尾/円覚寺/☆☆☆☆☆(車でも行きづらい市内の秘境。そもそも開催されるか不定)
16日/西方寺/西方寺/★★★☆☆(知らないと分かりづらい場所。バスの場合、時刻に注意)
16日/中堂寺/壬生寺/★★★★★
18日/小山郷/上御霊神社/★★★★★
20日/田中/干菜山光福寺/★★★★★
22日/上鳥羽橋上/浄禅寺/★★★☆☆(六地蔵の一つなので有名だが、バスの本数は少ない)
22日/小山郷/上善寺/★★★★★
22日/西院/高山寺/★★★★☆(アクセスは良いが、案内がないので知らない人は入りづらいかも)
23日/嵯峨野/阿弥陀寺/★★☆☆☆(場所が分かりにくい上、初見で一人だと入りづらいかも)
25日/吉祥院南条/吉祥院天満宮/★★★★☆(交通機関の場所、本数、時刻は要チェック)
25日/久世/長岡天満宮/★★★★★
27日/梅津/梅宮大社/★★★★★ ※毎年8月最終日曜開催
31日/久世/蔵王堂光福寺/★☆☆☆☆(交通機関のアクセスは悪い。車が妥当だが駐車場はない)
アクセスに関しては、乗継を考慮していませんので、遠方からお越しの場合、★5でも帰れない可能性があります。
完全な一山打ちをご覧になりたい場合、地元の主公演をお勧めします。
例えば、久世は蔵王堂で絶対に見るべきですし、小山郷は上善寺、嵯峨野は阿弥陀寺が良いです。
※嵯峨野六斎は9月の第一日曜にも松尾大社で奉納があります。

六斎に興味をお持ちになられたら、是非一生に一度はどこでもいいのでご覧頂きたいですし、一か所ご覧になって、ちょっとでも面白いと思われたなら、また別の所へ足を運んで頂ければ、関係者としてこれにすぐる喜びはございません。

2017.08.22

西院六斎 平成29年

平成29年8月22日(火曜日)午後7時から日照山高山寺にて西院六斎が奉納されました。
西大路四条は北東角のバス停前にあるお寺です。
阪急電車や京福電車の西院駅からすぐなので、アクセス至便です。
人通りは多いですが、門前には何ら案内が出ていませんし、提灯が下がっているでもないので、知る人ぞ知る感じ。

南の門(四条通沿い)から入って、左手の棟に上がります。靴はビニール袋に入れて持ち込みます。
奉納場所は、ご本尊のおられるお部屋の西側に続く、12畳程のお部屋です。
観客はその西と南の続きの間から鑑賞します。
20分位前までは人出がまばらでしたので、講の方は告知不足を心配しておられましたが、始まる前には満席になりました。
ちなみに、昔は門の外に一人立って、寄せ太鼓をずっと打ち鳴らして集客していたそうです。


四ツ太鼓

当日の奉納演目は、発願、万歳、さらし、四ツ太鼓、祇園囃子、獅子と蜘蛛、結願。
発願と結願は東の方(鉦の枠がある方)を向いて奉納されます。そちらのふすまの向こうにご本尊がおられるからです。
それ以外は南側(入り口の方)を向いて演じられます。


祇園囃子

この日の参加者は、17名程だったと思います。
揃いの浴衣に黄色のタスキを掛けていらっしゃいました。


獅子と蜘蛛

西院六斎は寛永年間に始まり、元禄期には月鉾の祇園囃子を取り入れたと伝える由緒ある講ですが、久しくその中心的活動と言える高山寺での奉納を休止していました。
10年程前には、春日神社境内で奉納されているのを見た記憶がありますが、それ以降は、神輿が忙しいから、という理由で結局続かなかったと聞いています。
とにかく、人がいないことには実施出来ないもので、度々の中断を挟みながらも、小学生に教えたりなどして地道に辛抱強く六斎の火をともし続けられ、今日こうして奉納を務められたことは、大変めでたく、また喜ばしく存じます。

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