コラム

2014.10.04

講衆に聞く:けいちゃん

今回から“講衆に聞く”と題しまして、講中に在籍している方にこの欄へ登場してもらいます。

最初のテーマは「入会のきっかけ」。
第1回目の今回は、“けいちゃん”へのインタビューを一問一答形式で掲載します。
インタビュアーはWEB広報担当のはたぼんです。

――おいくつで入られたんですか?
12歳やったかなあ。舞台に立ったんは中1の時やけど。先の1年間は稽古して。稽古はお寺(壬生寺)でやったね。先代の貫主さんも六斎で笛吹いたはったし。

――どういう経緯で入られたんですか?
地域の人からうちに話があったんでしょうなあ。戦後、本格的に壬生六斎再開ということで(壬生六斎は昭和13年から20年まで活動を休止)、若中(地域の青年団みたいな自治組織)を通して勧誘活動が行われて、うちの家もその繋がりで色々関わっていたから話が来て、それで自然と入ったような。

――代々やっていたからというのではないわけですね?
うん、おじいさんが狂言はやっていたけどね、六斎は身内がやっていたということはない。

――昭和20年代の壬生六斎はどんな雰囲気でしたか?
人が少なかった。おじいさんらが5、6人と若手の人ら。そやから割とはよからね、“太鼓やれ”言われて上打もやった。笛は持っていたけど、本番ではやってないね。何しろ太鼓ばっかりやらんならんかった。よう上の人からね、“けいちゃん、けいちゃん”て可愛がってもらいましたよ。子供の頃から大人の輪に入っていることが多かったねえ。

――ちなみに、戦時中の壬生はどんな感じだったのですか?
空襲警報がよう鳴って。そしたら近所の、元々映画館やった所の屋上に上ってね、桂の方から飛んできた戦闘機を眺めたり。子供やったこともあって、あんまり悲壮感はなかったなあ。ただ、学校(けいちゃんは朱雀第三小学校の出身)に配給される運動靴が1組に一つずつとかね、物が少ない印象はあった。

――同級生も六斎に入ったんですか?
一緒には入ってないけど、3人位いてた。割とすぐ辞めてしもたなあ。ほんで、普段から仲のいい子らというのでもなくて、六斎の時だけ会うような間で。

――けいちゃんがこれまで続けてこられた理由は何だと思いますか?
義務感みたいなもんかなあ。そもそも入った時もね、“地域のことやから守っていかなあかん”という意識で当たり前に考えていたし。

――地域の役もかなり沢山務められてますものね。
そうやね、そういうのもまあ言うたら、義務やね。

――これからの壬生六斎について一言。
折角舞台に出てもねえ、四ツ太鼓と祇園ばやししか出番がないのでは退屈やろし、なんでも出来るようになってもうて、どんどん役割を振っていきたい。一人一人につき、何か1曲でも見せ場があるようなね。まあ若い人らがようやってくれてるし、年寄は手が足りひん時だけちょっと呼ばれるような形で、見守っていけたらなあというのが理想です。若い人らは、これからも壬生六斎を絶やさへんように頑張って下さい。

――ありがとうございました。

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