コラム

2017.07.24

平成29年 後祭日和神楽

7月23日夜は祇園会、後の祭りの日和神楽です。

南観音山、大船鉾、北観音山の順に御旅所で見ました。
鷹山は見なかったので、南観音山の前に来たのでしょうか。

前の祭りのように四条通を東進してくるのではなく、いずれも寺町通から南下してきました。

奉納後の北観音山に付いてゆくと、寺町を上がって三条を西へ行きました。
その後、堺町で曲がるようなことを漏れ聞きました。

堺町を超えると、大船鉾に追いつきました。
飲み物休憩をされて、その後、烏丸を渡って鷹山の町へ。

鷹山は町内でまだ演奏中でした。
その横を抜ける大船と鷹山の囃子が交錯する様子は、言語に尽くしがたい美しさでした。
前の祭りでは、日和の際、他所の山鉾に近づくと囃子を中断しなければならない申し合わせがありますが、後祭りではないようですね。
和気あいあいとした囃子方の交流は、町衆の心意気を象徴的に表したダイナミズムを感じさせました。

それはそうと、鷹山の日和の台車は非常に大きいですね。
思うに、全基中最大でしょう。
お子さん達が鉦を担当されていたことを差し引いても、かなり縦長だと思います。
復興に向けた勢いを感じました。

その後、南観音山のあばれ観音を拝見し、“わっしょい、わっしょい”とかしわ手を打って帰りました。
明日は神輿送り、祇園御霊会です。

2017.07.01

壬生六斎中興伝(2)

二 年寄衆

 講中再結集最初の活動は、昭和20年(西暦1945年)京都第一赤十字病院への進駐軍傷病兵慰問公演でした。時代背景を象徴するような依頼です。これに講衆の誰が何名参加したかまでは詳らかに伝わっていませんが、まだ新会員の募集をする前であったことから、その後の講中に在籍した戦前派を中心に組織して行ったものと解されます。

 この戦前派というのは、戦後加入者の中核からして大よそ親世代になります。実際、浅井音次郎氏と、後に会長となる浅井光三氏は親子で、講中休止の時にはまだ幼かった三男坊光三氏が、戦後に父から誘われて入会したものです。新人はこの光三氏と同年代が中心であり、当時二十歳前後。その彼らから“年寄衆”と呼ばれた戦前派達は、平均寿命の延びた現代の年齢観念以上に、例えば六十代でもお年寄りに見えたものでしょう。

 但し、ここで言う戦前派と年寄衆は同義ではなく、戦前から加入の講衆にも唯一年寄に扱われない人がありました。それは、先に挙げた浅井光三氏より一回り程年長の上田博一氏で、当時三十そこそこですから、さすがにこの時代でもまだ年寄とは呼ばれません。博一氏は出征から帰ってきての合流でした。元々は昭和13年(西暦1938年)時の名簿にも名を連ねている講衆です。

 その博一氏の父親が上田源次郎氏で、彼らもまた浅井氏同様親子で講に所属していました。この上田家と浅井家は代々壬生六斎を支えてきた家で、特に上田家は、博一氏の息子らもまた六斎で活躍し現在に至ります。先祖供養を趣旨とする集まりであり、且つはまた地域内での限定的社会活動であることから、かつては家単位で関わることが伝統的に多かった壬生六斎念仏講中ですが、両家はその名残を僅かながら今に伝えるものと言えるでしょう。

 上田源次郎氏は元青果市場の経営者で、“壬生源”と言えば地区内外に知る人ぞ知る人物でした。その逸話は枚挙に暇がなく、一例を挙げると、友人の借金の連帯保証人になって二度も破産しながら、二度とも経営を盛り返した、というのがあります。この話の括目すべき点は、破産の際、給金が支払えないからと暇を出したにもかかわらず、従業員が一人も去らなかったところ。余程の人望と信頼がないと成立しないことでしょう。現在の京都市交通局壬生操車場と中京警察署の敷地は、その青果市場を売却したものです。

 芸ものを得意としていた源次郎氏。「祇園ばやし」の棒振り、「獅子舞」の蜘蛛を歴任しました。棒振りの時は“鬼門切り”という、これは大相撲の弓取り式で見られるような所作で、これを取り入れているのが特徴でした。また、自身が蜘蛛を担当していたからでしょうが、棒振りの時も蜘蛛のスを撒いていました。後代の担当者もこれに倣った例があります。戦前からの連続性が一旦解消されている為、後進は結局、彼ら年寄衆を基準とするほかなかったのです。その意味で、源次郎氏の芸は一時伝承の集約された指標とされたことでしょう。

 この点は、笛の旋律についても強く言えることです。笛方は講中再開当時、若林清次郎氏一人しか残っていませんでした。そもそもが笛を吹ける人間は数が限られていたようで、若林氏がただ一人で壬生大念仏狂言の笛も守っていた時期があったと言います。壬生狂言に笛の導入されたのは明治期以降と大念仏講中の方から伝え聞きますから、間違いなく明治以前の生まれである若林氏の笛は、あるいはその始祖に近い形だったかもしれません。いずれにせよ、氏の旋律を六斎、狂言共に見倣うほかはなく、後にそれを受け継いだ根角栄一氏が今度は壬生の正統となっていくのです。ちなみに根角氏は、若林氏から江戸時代作の笛そのものも譲り受けています。

 ところで、伝承伝承と言っても書き残すものとてなく、音楽といっても西洋のように規則性を持たない性質上、六斎においては知識の伝達に最も有効適切な手段が根付いてきました。それは、歌です。壬生六斎における伝統継承の要は全て口伝なのです。その重要性を説き、併せて太鼓の技術を中心に指導したのが、浅井音次郎氏と、そして佐竹藤三郎氏でした。

 就中浅井音次郎氏の家は先述の通り代々六斎に深く関わってきたわけですから、とりわけ伝承には詳しく、また独自に家で預かっている道具類もありました。傘鉾との由来についても、その父・寅次郎氏から親しく聞かされており、また緻密に記憶を整理する性格もあって、出来るだけ正確に、且つ熱情を持って息子らに伝えたと言います。綾傘鉾の再開に際しても、上田博一氏と主導的役割を果たしましたが、残念ながら巡行参列には間に合わず、都大路に響く棒振囃子を共に謳歌出来ずに他界しました。

 佐竹藤三郎氏は、これまた記憶が鮮明な人で、歌と太鼓はなんでも出来たと言います。六斎の曲の伝授は、師と膝付きで相対し、歌いながら竹のバチで床板や木竹を打って行います。こういう稽古法自体の伝授も一種の遺産ではないでしょうか。ちなみに、家は酒屋をかつて営んでおり、新撰組がツケで買った時の証文が残っていたとか。

 この佐竹氏、先の若林氏、それに後輩の根角氏、堀氏はいずれも壬生川通より東の仏光寺通沿いに住まいが揃っていました。さらにこの一画にはもう一人、木村茂三郎氏という年寄衆もいました。この人は「四ツ太鼓」が滅法上手く、太鼓に跨るようにどっしりと足を開いて、且つはまた丸ごと抱え込むように腕を構えたら、目にも止まらぬ早業で打ったと言い、ある人がよく見たら上の段の二つしか打っていない時があったそうですが、そんなことがまるで気にならない位、観衆を魅了したとの逸話があります。但し、気難しく、後輩が頼みに頼んでやっと二度稽古に顔を出したのですが、後にも先にもそれだけしか参加しなかったそうです。

 年寄衆にはほかに、浅井英一氏という、鉦を主に担当していた人もありました。この人は、壬生狂言でも鉦を叩いていたそうです。壬生大念仏講中と壬生六斎念仏講中は全く別の団体ですが、ひとつ地域に存在する関係上、六斎にいる人は狂言を兼ねるのが通例でした。その際、やはり囃子を引き受けることもありましたが、それだけではなく、芝居の方もやっていました。

 こうして壬生六斎の伝統は、上田源次郎氏、浅井音次郎氏、若林清次郎氏、佐竹藤三郎氏、木村茂三郎氏、浅井英一氏ら年寄衆六名と、上田博一氏を筆頭とした新世代によって引き継がれていくのです。

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