コラム

2017.10.16

壬生六斎中興伝(4)

四 六斎ことはじめ

 新会員が稽古場に行くと、床にバチ、鉦、新品の笛が並べられており、その中からどれか取れと言われました。六斎踊りの楽器構成上、大半を占めるのが太鼓なので、ほとんどがバチを取り、行きがかりで堀氏と根角氏が笛を取ることになります。旧知の仲である両氏は共に行動することが多く、この後も、獅子を二人で担当したりすることになります。

 さて、六斎伝承の要は歌ですので、稽古はまずその習得から始めます。仮に旋律だけ覚えた、太鼓だけ覚えた、という人がいたとしても、ほかの人と合わせられなければ出来たとは言えません。先人に言わせると、「一人でやってんのとちゃうんやからな」ということで、手前勝手に覚えたことだけ吐き出しても合奏の態は成さない。歌はいわば、見えない“指揮者”の役割として機能してきたわけです。

 初めに歌を教えたのは、上田源次郎氏、浅井音次郎氏、佐竹藤三郎氏でした。特に佐竹氏は、「四ツ太鼓」から何から全般を教授しました。とはいえ、授業は決してスムーズに進んだわけではありません。師範が歌を歌いますと、聞いている方は途中で分からない点が出てくるので止めます。すると、その箇所だけを歌うということが師範には出来ない。年齢的な問題もあったのでしょう。結局また、頭から歌い出す。やはり聞き取りづらい所が出てくる。すると、また頭から……と、きりがない位何度も同じことを繰り返しました。その間、メモを取ったり、オープンリールのテープに録ったりと工夫をしましたが、相当に時間は掛かりました。

 浅井家にて音次郎氏に歌を習っていた折、例によって何度も何度も同じ歌を聞いていると、生徒の一人だった浅井光三氏の、年の開いた弟が、まさに習わぬ経を読むように、大人達を差し置いて早々と覚えてしまったこともありました。懸命に稽古している兄の横で、頭の柔らかい子供が独りでに歌を口ずさんでいたのです。ちなみに、この子、勝治氏は、長じて六斎に正式加入し、今度は自分が子供達に歌や太鼓を伝授する立場となりました。

 ともあれ、歌を覚えなければ始まらないということで、とりわけ六斎にこれまで触れてこなかった人には特別訓練が必要でした。根角氏などは、仕事中にも歌を口ずさみ、「お前、何ブツブツ言うてんのや」と、笑われたりもしました。それでも、本当に覚えようと思うと、稽古場だけで足りるはずもなく、むしろ家に帰ってから、日常的にどれだけ反復するかが勝負になります。そして、それをまた持ち寄って、皆で合わすように稽古するのです。こうした取り組みは時間が掛かるようではありますが、一度その節、間、調子が体に染み込んでしまえば、容易く合奏を成功させられる為、非常に機能的です。逆に、歌を共有していない人とはいつまでも調子が合わないものです。

 歌を覚えると、続いて、楽器の習得に移ります。といっても、ここまでで歌が体に入っていたら、それ程時間の掛かることではありません。先達はよく「歌の通りやるだけや」と口を揃えますが、まさしくその通りで、太鼓も笛も鉦も、その点は大差ありません。後は、出来ることを上手く表現し得るようになるかという、そこから個人の技量の話になってきます。

 太鼓は、やはり歌を歌いもって、竹の切れ端をバチとして、板などをペシペシ叩きながら稽古します。歌に手を付けていく感じです。例えば、「海士の衣も」という節に対して、「テンテンテントコトコテンテン」とバチを動かすのです。これも普段の練習が物を言うので、浅井光三氏は日頃から指先で膝を弾いたりして、手に癖をつけていたそうです。

 なお、曲によっては、太鼓の役割に、先に打つ“オモテ”と後に打つ“ウラ”の別がありますが、初めにどちらを担当するか決めて、出来れば二人一組で稽古するのが良いとされます。稽古の段階で結局どちらも出来るようにはなりますが、とっさの時の打ち損じを減らす為です。オモテは出の音を司るので走らずきっちりとペースを作るように、ウラは遅れないようにすかさず入ってとどめの音をきちっと分かりやすく決めるように、と、後進は指導を受けました。

 笛は、音を出すまでにひと苦労ありますが、出せれば後は歌の通りに吹きます。堀氏と根角氏は、当時唯一の吹き手であった若林清次郎氏に師事。その運指を学びました。もっとも、入れ歯だった若林氏、稽古中はスースー、スースー言うばかりで、音が鳴っているやら何やら分からないこともしばしば。弟子達は難儀したそうです。二人の弟子の内、根角氏は技巧的で飾りの多い音色を好んだのに対し、堀氏は実直に精緻な節回しを心掛けており、右利きの根角氏、左利きの堀氏の構えの違いも相まって、好対照を成しました。

 ところで鉦は、「祇園ばやし」を除けば二丁吊りだけになりますが、これは習うものではなく、他の楽器、就中太鼓を経験した人に担当が回ってくるもので、全体のことをわきまえている人が、演奏の調子を合わせる目安を示す為に鳴らすものです。したがって、他所の講でも概ねそうかと存じますが、比較的芸歴の長い方が担当されます。演奏の際は、これもやはり「歌の通りに」ですが、要所要所で特徴的な固定の叩き方がある一方で、事細かな指示があるではなく、それよりも歌に沿って調子よく、それでいて太鼓や鉦に合わしにいくのではなく、独立した基準として叩くべしとされました。

2017.10.14

壬生六斎中興伝(3)

三 中興世代集結

 根角栄一氏は戦時中、学徒動員によって国鉄の運輸・運搬部門に所属し、機関車の中で労働をしていました。業務は過酷で、物資の乏しい時勢に真っ当な石炭はなく、現場に届けられるのは粉炭と呼ばれる粉々のものばかり、それも雨で濡れると燃えないので機関車が動かない、すると上役の機関士から怒られる、ハンマーで小突かれる、ただでさえ重労働の上にそんな八つ当たりをされてはたまったものではなく、氏はとうとう勤務をボイコットし、残された月給も貰わずじまいに終戦を迎えました。

 それでも命が助かっただけ良かったと言えるでしょう。同級生には中学生にして戦地へ赴いた者もおりましたが、結局誰も帰ってきませんでした。そう考えると、兵役に行っていた上田博一氏(こちらは学徒ではなく、成人として徴兵されたもの)は、非常に運が良かったわけです。ご本人やご家族にとっては勿論の事、その後の壬生六斎にとりましても。

 さて、終戦後、家業の染物屋を継いだ根角氏は、向かいで張り物屋をしていた堀啓三氏からある話を持ちかけられます。堀氏は根角氏と同級生。子供の頃から親しかったわけですが、彼が言うには、壬生六斎が新会員を募集しているので一緒に行こうとのこと。父親が町会長をしていた加減で、そういう地域活動の話が早く耳に入る立場だったのです。結果、根角氏は、堀氏に誘われて六斎を始めることになりました。

 しかし、当時の根角氏、六斎の“ろ”の字も知りません。見たことも聞いたこともありませんでした。父が広島から当地に移り住んで独立した家柄、壬生の事情には疎く、また伝統事に殊更関心もない家だったので、つい大人になるまで見過ごしていたのです。堀家もまた代々六斎に関わってきた家ではありませんで、似たようなもの。完全な新人組として、未知の世界に足を踏み入れた形となりました。

 そこで出会ったのが、浅井光三氏。歳は同じですが、学区が違うのでここで会ったのが初めてでした。壬生川通を挟んで当時東側は郁文学区、西側は朱雀第三(朱三)学区に分かれており、郁文学区の根角家と朱三学区の浅井家は、ほんの30メートル程しか家が離れていないのに顔も知らない仲だったのです。この浅井家は先の二人とは違い代々壬生六斎を継承してきた家系。戦争が終わり、心機一転六斎再開という段になって、成人になりなんとする光三氏が満を持して入会した格好です。浅井家は青物や乾物を商っていましたが、三男の光三氏は当時宮大工をしていました。

 光三氏にも一緒に入会した同級生がおりました。岩見芳一氏です。岩見家は浅井家の並びの家で、同じ町内。芳一氏は家を出て、円町でタバコ屋(駄菓子屋)を営んでいました。同級生繋がりで言うなら、上田博一氏に勧誘された岡村正一氏も同様。当時会社員でした。このほかに、漬物屋の出で、後に薬剤師となる西野氏がいました。世代順で言うと、上田博一氏、岡村氏、そこから一回り下の浅井光三氏、岩見氏、根角氏、堀氏、そして西野氏ということになり、この七名が新世代の中核となって、新壬生六斎を牽引していくこととなります。

 そして、その少し下に、吉江氏、建川氏、片岡氏、平野氏が続きます。かくして、昭和22年(西暦1947年)までの1、2回の募集で、壬生六斎の中興メンバーはほとんど揃うこととなりました。

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