コラム

2017.10.14

壬生六斎中興伝(3)

三 中興世代集結

 根角栄一氏は戦時中、学徒動員によって国鉄の運輸・運搬部門に所属し、機関車の中で労働をしていました。業務は過酷で、物資の乏しい時勢に真っ当な石炭はなく、現場に届けられるのは粉炭と呼ばれる粉々のものばかり、それも雨で濡れると燃えないので機関車が動かない、すると上役の機関士から怒られる、ハンマーで小突かれる、ただでさえ重労働の上にそんな八つ当たりをされてはたまったものではなく、氏はとうとう勤務をボイコットし、残された月給も貰わずじまいに終戦を迎えました。

 それでも命が助かっただけ良かったと言えるでしょう。同級生には中学生にして戦地へ赴いた者もおりましたが、結局誰も帰ってきませんでした。そう考えると、兵役に行っていた上田博一氏(こちらは学徒ではなく、成人として徴兵されたもの)は、非常に運が良かったわけです。ご本人やご家族にとっては勿論の事、その後の壬生六斎にとりましても。

 さて、終戦後、家業の染物屋を継いだ根角氏は、向かいで張り物屋をしていた堀啓三氏からある話を持ちかけられます。堀氏は根角氏と同級生。子供の頃から親しかったわけですが、彼が言うには、壬生六斎が新会員を募集しているので一緒に行こうとのこと。父親が町会長をしていた加減で、そういう地域活動の話が早く耳に入る立場だったのです。結果、根角氏は、堀氏に誘われて六斎を始めることになりました。

 しかし、当時の根角氏、六斎の“ろ”の字も知りません。見たことも聞いたこともありませんでした。父が広島から当地に移り住んで独立した家柄、壬生の事情には疎く、また伝統事に殊更関心もない家だったので、つい大人になるまで見過ごしていたのです。堀家もまた代々六斎に関わってきた家ではありませんで、似たようなもの。完全な新人組として、未知の世界に足を踏み入れた形となりました。

 そこで出会ったのが、浅井光三氏。歳は同じですが、学区が違うのでここで会ったのが初めてでした。壬生川通を挟んで当時東側は郁文学区、西側は朱雀第三(朱三)学区に分かれており、郁文学区の根角家と朱三学区の浅井家は、ほんの30メートル程しか家が離れていないのに顔も知らない仲だったのです。この浅井家は先の二人とは違い代々壬生六斎を継承してきた家系。戦争が終わり、心機一転六斎再開という段になって、成人になりなんとする光三氏が満を持して入会した格好です。浅井家は青物や乾物を商っていましたが、三男の光三氏は当時宮大工をしていました。

 光三氏にも一緒に入会した同級生がおりました。岩見芳一氏です。岩見家は浅井家の並びの家で、同じ町内。芳一氏は家を出て、円町でタバコ屋(駄菓子屋)を営んでいました。同級生繋がりで言うなら、上田博一氏に勧誘された岡村正一氏も同様。当時会社員でした。このほかに、漬物屋の出で、後に薬剤師となる西野氏がいました。世代順で言うと、上田博一氏、岡村氏、そこから一回り下の浅井光三氏、岩見氏、根角氏、堀氏、そして西野氏ということになり、この七名が新世代の中核となって、新壬生六斎を牽引していくこととなります。

 そして、その少し下に、吉江氏、建川氏、片岡氏、平野氏が続きます。かくして、昭和22年(西暦1947年)までの1、2回の募集で、壬生六斎の中興メンバーはほとんど揃うこととなりました。

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