コラム

2017.12.04

壬生六斎中興伝(5)

五 岡村氏の企画実行力

 六斎の行事は盂蘭盆会の行事に集中し、壬生六斎の場合は、新暦8月9日の精霊迎え火(しょうらいむかえび)、その一週間後16日の精霊送り火(しょうらいおくりび)、さらに一週間後23日の地蔵盆に、それぞれ壬生寺本堂にて一山打ち(いっさんうち)を行い、13日から15日にかけては棚経をします。これらも昭和13年(西暦1938年)以降は休止していましたが、講中再結集後から順次再開していきました。

 そうして数年も経つと、年若い入会者も増え、青果店壬生太の兄弟や、後に会長となる林氏をはじめとした子供らも入って、講中はますます賑やかになっていきます。昭和20年代後半のことです。


浴衣の違う3名が年寄衆。左から浅井音次郎氏、佐竹氏、若林氏。その右が上田博一氏。
前から三列目、一番左が岡村氏、一人飛ばして根角氏、また一人飛ばして平野氏、右端が建川氏。
最後列は左から堀氏、浅井光三氏、吉江氏、岩見氏、棒振りの衣裳の西野氏。
※大人のみ紹介。子供(当時)は省略。

 ただ、これで往時の通りかと申せば、果たしてそう易々といかないわけで、大人達はほぼ新人、前述の通りほとんど自分達の稽古で精一杯という有り様で、子供らの指導まで手が回らず、この世代の子達は林氏以外あまり長く定着しませんでした。このことは後の課題となります。

 また、その大人の新人達にしても、上記年中行事だけで、すなわち一定期間数回の出演だけで早期に上達せよというのは中々酷な話でした。やはり人前で披露する場数を踏んでこその上達です。そこで、重要になってくるのが出張出演の舞台。そもそも、六斎はお盆の時期以外にも各所へ出向いて演じるのが習わしで、その意味で出張は伝統に沿った活動なのです。とはいえ、そう都合よくポンポンと出演依頼が舞い込むわけではなく、まして、休止期間を挟んでの当時ですからなおさらでした。

 そこで、若手年長者達は自ら売り込むことを考えます。と言っても、営業をかけるのではありません。無償で奉仕をしました。最初の内の行き先は、市役所の窓口で、こういう奉仕をさせてほしいと申し出、紹介してもらいました。例えば孤児院へ。講中の岩見芳一氏は駄菓子を商っていましたが、それを六斎の道具と一緒に台車へ積んでいき、子供達に配りました。お菓子と六斎、これは大変喜ばれました。

 お金を貰わなかったのは、今欲しいのはお金ではなく六斎を演じられる場所、だったからに相違ありませんが、率直な所、お金を取れる実力ではない為でもありました。実際、若手だけで行った最初の出張は散々な失敗で、「もう少し出来るつもりでいた」のが、完全に鼻っ柱を折られる結果となりました。

 しかし、彼らはそれに心折れることなく、むしろ奮起して出演を続けます。すると、その甲斐あって口コミで評判が広まり、次第に「うちにも来てほしい」とお声が掛かるようになっていきました。それから出張出演は軌道に乗っていき、やがては出演料も頂いて講中の活動資金に充てられるようになっていきます。後の世代が安定して出演依頼を受けられるようになったのも、ひとえに彼ら中興世代の地道な努力があったればこそでしょう。

 ちなみに、この世代が在籍していた当時で最も遠い出張地は秋田県であり、この移動距離記録は我が講中においていまだに破られておりません。当時は鈍行列車で気の遠くなるような時間を掛けて赴いたそうです。また、この時の舞台に合わせて、初めて足袋を着用しました。それまでは裸足で演じるのが常でした。

 ところで、こうした出演ないし奉仕に際して、いつも講中の窓口となり話をつけてくる役割の人がおりました。それが岡村正一氏です。先の奉仕活動の時も、企画提案し、その実際の道筋をつけてきたのが同氏でした。そもそも、稽古の日取りから場所の手配、年寄衆への連絡等、普段から事務的なことを率先して引き受けてきた人です。

 岡村氏は、上田博一氏と同級生で、その勧誘によって入会。この時三十歳。他の多くの新会員と同様、彼もまた六斎について門外漢でした。会社勤めをしており、この点自営業の多い講衆の中では異色です。技術的には「どんくさい」という評判が専らで、お世辞にも芸達者ではありませんでしたが、それは本人にも自覚があったらしく、あまり積極的に舞台に立とうとはしませんでした。しかし、浅井氏・根角氏口を揃えて言うことに、「頼み込んで、入ってもらった」という言葉通り、欠くべからざる存在感で講に貢献します。

 それが先述の通り、雑務一般から企画営業まで、という点に表れていますが、もっと言えば、けんかの仲裁役もしていました。あまり大きな声では言えませんが、上田博一氏と浅井光三氏は折り合いが悪く、事ごとに衝突が絶えませんでしたが、例えば、こういう若手同士の諍いをなだめるような人格を岡村氏は有していたわけです。余談ですが、博一氏と光三氏は「祇園ばやし」の太鼓でコンビを組んでいましたが、この時ばかりは息がぴったりで、傍から見れば「あんなにいがみ合っていたのに」とあきれる程でした。漫才師のような両人です。

「祇園ばやし」と言えば、それを若手メンバーで習得した後、綾傘鉾の町内へ行って奉納しようと企画したのも岡村氏でした。壬生六斎の同演目が両傘鉾の囃子と踊りを継受したものとは、浅井音次郎氏などから聞かされており、また知る人ぞ知る事実ではありましたが、これに着目し、実際に町内まで行って話を通してきたものです。この頃、四条傘鉾は影形もなく、綾傘鉾は焼山として宵山に辛うじて飾りを見せる程度でした。よって、四条傘鉾を訪ねることは困難でしたが、綾傘鉾にはまだ関係する人が居たので、その僅かな縁を頼ったものです。

 当日の演者は、太鼓が上田博一氏と浅井光三氏、鉦が岩見氏、笛が堀氏と根角氏、棒振りが西野氏という最小限の構成。岡村氏は後見となっており、例によって前には出ません。壬生村と綾傘鉾の関係を裏付ける史料として「祇園会細記」がありますが、その中の記述、囃子方が壬生村より来るのは「七人これ有り」と奇しくも同一の人数となりました。なお、この時演じたのは“壬生六斎の”祇園ばやしであり、太鼓は締太鼓ではなく六斎の太鼓です。

 この企画は、浅井光三氏のメモによると昭和29年のことですが、2度程行った記憶があると、同氏及び根角氏は語っています。残念ながら、これ以降継続することはありませんでしたが、記録上70年途絶えていた綾傘鉾の祇園囃子を久しぶりで町内に響かせたことにはなりました。

 岡村氏はほかにも、楽器の修繕手配を担当していました。特に太鼓の皮は使う程に弱りますから、定期的に張り替えが必要です。その発注を引き受けていたのでした。また、衣裳や道具に関しては、多少の事なら自分で繕ったそうです。とかく、メンテナンスについては彼の専売特許となりました。

 中でも功績の大きかったのは、鉦講の教本を製本し直したことです。鉦講は念仏六斎を奉じる集まりですが、その際唱える歌の文言を記した教本がありました。しかし、その損傷はひどく、鉦講の記憶と共に散逸する寸前であった為、これをまた岡村氏が手配して、新たに作り直したのです。実際のところ、壬生の鉦講が存在したことを示す物証はほとんどこれのみとなっており、彼の機転によって一つの文化財が救われたのでした。

 このように、縁の下の力持ちの如く講中を支えてきた岡村氏ですが、その最たる功績は人を育てたことかもしれません。昭和30年代に入ると、また新たな世代が入会してきますが、そういう小さな子達の面倒を、今度は率先して見たのです。前述のように稽古場において、大人達はまだ自分のことで手一杯な中、結果的に自分があまり演目に出ない岡村氏は、子供達の指導に自ら回ることとなりました。その子達の中から、池田氏、惠阪氏、そして上田博一氏の長男・勝己氏という、後々に講中の屋台骨を担う伝承者が現れるのです。

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