コラム

2017.12.04

壬生六斎中興伝(5)

五 岡村氏の企画実行力

 六斎の行事は盂蘭盆会の行事に集中し、壬生六斎の場合は、新暦8月9日の精霊迎え火(しょうらいむかえび)、その一週間後16日の精霊送り火(しょうらいおくりび)、さらに一週間後23日の地蔵盆に、それぞれ壬生寺本堂にて一山打ち(いっさんうち)を行い、13日から15日にかけては棚経をします。これらも昭和13年(西暦1938年)以降は休止していましたが、講中再結集後から順次再開していきました。

 そうして数年も経つと、年若い入会者も増え、青果店壬生太の兄弟や、後に会長となる林氏をはじめとした子供らも入って、講中はますます賑やかになっていきます。昭和20年代後半のことです。


浴衣の違う3名が年寄衆。左から浅井音次郎氏、佐竹氏、若林氏。その右が上田博一氏。
前から三列目、一番左が岡村氏、一人飛ばして根角氏、また一人飛ばして平野氏、右端が建川氏。
最後列は左から堀氏、浅井光三氏、吉江氏、岩見氏、棒振りの衣裳の西野氏。
※大人のみ紹介。子供(当時)は省略。

 ただ、これで往時の通りかと申せば、果たしてそう易々といかないわけで、大人達はほぼ新人、前述の通りほとんど自分達の稽古で精一杯という有り様で、子供らの指導まで手が回らず、この世代の子達は林氏以外あまり長く定着しませんでした。このことは後の課題となります。

 また、その大人の新人達にしても、上記年中行事だけで、すなわち一定期間数回の出演だけで早期に上達せよというのは中々酷な話でした。やはり人前で披露する場数を踏んでこその上達です。そこで、重要になってくるのが出張出演の舞台。そもそも、六斎はお盆の時期以外にも各所へ出向いて演じるのが習わしで、その意味で出張は伝統に沿った活動なのです。とはいえ、そう都合よくポンポンと出演依頼が舞い込むわけではなく、まして、休止期間を挟んでの当時ですからなおさらでした。

 そこで、若手年長者達は自ら売り込むことを考えます。と言っても、営業をかけるのではありません。無償で奉仕をしました。最初の内の行き先は、市役所の窓口で、こういう奉仕をさせてほしいと申し出、紹介してもらいました。例えば孤児院へ。講中の岩見芳一氏は駄菓子を商っていましたが、それを六斎の道具と一緒に台車へ積んでいき、子供達に配りました。お菓子と六斎、これは大変喜ばれました。

 お金を貰わなかったのは、今欲しいのはお金ではなく六斎を演じられる場所、だったからに相違ありませんが、率直な所、お金を取れる実力ではない為でもありました。実際、若手だけで行った最初の出張は散々な失敗で、「もう少し出来るつもりでいた」のが、完全に鼻っ柱を折られる結果となりました。

 しかし、彼らはそれに心折れることなく、むしろ奮起して出演を続けます。すると、その甲斐あって口コミで評判が広まり、次第に「うちにも来てほしい」とお声が掛かるようになっていきました。それから出張出演は軌道に乗っていき、やがては出演料も頂いて講中の活動資金に充てられるようになっていきます。後の世代が安定して出演依頼を受けられるようになったのも、ひとえに彼ら中興世代の地道な努力があったればこそでしょう。

 ちなみに、この世代が在籍していた当時で最も遠い出張地は秋田県であり、この移動距離記録は我が講中においていまだに破られておりません。当時は鈍行列車で気の遠くなるような時間を掛けて赴いたそうです。また、この時の舞台に合わせて、初めて足袋を着用しました。それまでは裸足で演じるのが常でした。

 ところで、こうした出演ないし奉仕に際して、いつも講中の窓口となり話をつけてくる役割の人がおりました。それが岡村正一氏です。先の奉仕活動の時も、企画提案し、その実際の道筋をつけてきたのが同氏でした。そもそも、稽古の日取りから場所の手配、年寄衆への連絡等、普段から事務的なことを率先して引き受けてきた人です。

 岡村氏は、上田博一氏と同級生で、その勧誘によって入会。この時三十歳。他の多くの新会員と同様、彼もまた六斎について門外漢でした。会社勤めをしており、この点自営業の多い講衆の中では異色です。技術的には「どんくさい」という評判が専らで、お世辞にも芸達者ではありませんでしたが、それは本人にも自覚があったらしく、あまり積極的に舞台に立とうとはしませんでした。しかし、浅井氏・根角氏口を揃えて言うことに、「頼み込んで、入ってもらった」という言葉通り、欠くべからざる存在感で講に貢献します。

 それが先述の通り、雑務一般から企画営業まで、という点に表れていますが、もっと言えば、けんかの仲裁役もしていました。あまり大きな声では言えませんが、上田博一氏と浅井光三氏は折り合いが悪く、事ごとに衝突が絶えませんでしたが、例えば、こういう若手同士の諍いをなだめるような人格を岡村氏は有していたわけです。余談ですが、博一氏と光三氏は「祇園ばやし」の太鼓でコンビを組んでいましたが、この時ばかりは息がぴったりで、傍から見れば「あんなにいがみ合っていたのに」とあきれる程でした。漫才師のような両人です。

「祇園ばやし」と言えば、それを若手メンバーで習得した後、綾傘鉾の町内へ行って奉納しようと企画したのも岡村氏でした。壬生六斎の同演目が両傘鉾の囃子と踊りを継受したものとは、浅井音次郎氏などから聞かされており、また知る人ぞ知る事実ではありましたが、これに着目し、実際に町内まで行って話を通してきたものです。この頃、四条傘鉾は影形もなく、綾傘鉾は焼山として宵山に辛うじて飾りを見せる程度でした。よって、四条傘鉾を訪ねることは困難でしたが、綾傘鉾にはまだ関係する人が居たので、その僅かな縁を頼ったものです。

 当日の演者は、太鼓が上田博一氏と浅井光三氏、鉦が岩見氏、笛が堀氏と根角氏、棒振りが西野氏という最小限の構成。岡村氏は後見となっており、例によって前には出ません。壬生村と綾傘鉾の関係を裏付ける史料として「祇園会細記」がありますが、その中の記述、囃子方が壬生村より来るのは「七人これ有り」と奇しくも同一の人数となりました。なお、この時演じたのは“壬生六斎の”祇園ばやしであり、太鼓は締太鼓ではなく六斎の太鼓です。

 この企画は、浅井光三氏のメモによると昭和29年のことですが、2度程行った記憶があると、同氏及び根角氏は語っています。残念ながら、これ以降継続することはありませんでしたが、記録上70年途絶えていた綾傘鉾の祇園囃子を久しぶりで町内に響かせたことにはなりました。

 岡村氏はほかにも、楽器の修繕手配を担当していました。特に太鼓の皮は使う程に弱りますから、定期的に張り替えが必要です。その発注を引き受けていたのでした。また、衣裳や道具に関しては、多少の事なら自分で繕ったそうです。とかく、メンテナンスについては彼の専売特許となりました。

 中でも功績の大きかったのは、鉦講の教本を製本し直したことです。鉦講は念仏六斎を奉じる集まりですが、その際唱える歌の文言を記した教本がありました。しかし、その損傷はひどく、鉦講の記憶と共に散逸する寸前であった為、これをまた岡村氏が手配して、新たに作り直したのです。実際のところ、壬生の鉦講が存在したことを示す物証はほとんどこれのみとなっており、彼の機転によって一つの文化財が救われたのでした。

 このように、縁の下の力持ちの如く講中を支えてきた岡村氏ですが、その最たる功績は人を育てたことかもしれません。昭和30年代に入ると、また新たな世代が入会してきますが、そういう小さな子達の面倒を、今度は率先して見たのです。前述のように稽古場において、大人達はまだ自分のことで手一杯な中、結果的に自分があまり演目に出ない岡村氏は、子供達の指導に自ら回ることとなりました。その子達の中から、池田氏、惠阪氏、そして上田博一氏の長男・勝己氏という、後々に講中の屋台骨を担う伝承者が現れるのです。

2017.10.16

壬生六斎中興伝(4)

四 六斎ことはじめ

 新会員が稽古場に行くと、床にバチ、鉦、新品の笛が並べられており、その中からどれか取れと言われました。六斎踊りの楽器構成上、大半を占めるのが太鼓なので、ほとんどがバチを取り、行きがかりで堀氏と根角氏が笛を取ることになります。旧知の仲である両氏は共に行動することが多く、この後も、獅子を二人で担当したりすることになります。

 さて、六斎伝承の要は歌ですので、稽古はまずその習得から始めます。仮に旋律だけ覚えた、太鼓だけ覚えた、という人がいたとしても、ほかの人と合わせられなければ出来たとは言えません。先人に言わせると、「一人でやってんのとちゃうんやからな」ということで、手前勝手に覚えたことだけ吐き出しても合奏の態は成さない。歌はいわば、見えない“指揮者”の役割として機能してきたわけです。

 初めに歌を教えたのは、上田源次郎氏、浅井音次郎氏、佐竹藤三郎氏でした。特に佐竹氏は、「四ツ太鼓」から何から全般を教授しました。とはいえ、授業は決してスムーズに進んだわけではありません。師範が歌を歌いますと、聞いている方は途中で分からない点が出てくるので止めます。すると、その箇所だけを歌うということが師範には出来ない。年齢的な問題もあったのでしょう。結局また、頭から歌い出す。やはり聞き取りづらい所が出てくる。すると、また頭から……と、きりがない位何度も同じことを繰り返しました。その間、メモを取ったり、オープンリールのテープに録ったりと工夫をしましたが、相当に時間は掛かりました。

 浅井家にて音次郎氏に歌を習っていた折、例によって何度も何度も同じ歌を聞いていると、生徒の一人だった浅井光三氏の、年の開いた弟が、まさに習わぬ経を読むように、大人達を差し置いて早々と覚えてしまったこともありました。懸命に稽古している兄の横で、頭の柔らかい子供が独りでに歌を口ずさんでいたのです。ちなみに、この子、勝治氏は、長じて六斎に正式加入し、今度は自分が子供達に歌や太鼓を伝授する立場となりました。

 ともあれ、歌を覚えなければ始まらないということで、とりわけ六斎にこれまで触れてこなかった人には特別訓練が必要でした。根角氏などは、仕事中にも歌を口ずさみ、「お前、何ブツブツ言うてんのや」と、笑われたりもしました。それでも、本当に覚えようと思うと、稽古場だけで足りるはずもなく、むしろ家に帰ってから、日常的にどれだけ反復するかが勝負になります。そして、それをまた持ち寄って、皆で合わすように稽古するのです。こうした取り組みは時間が掛かるようではありますが、一度その節、間、調子が体に染み込んでしまえば、容易く合奏を成功させられる為、非常に機能的です。逆に、歌を共有していない人とはいつまでも調子が合わないものです。

 歌を覚えると、続いて、楽器の習得に移ります。といっても、ここまでで歌が体に入っていたら、それ程時間の掛かることではありません。先達はよく「歌の通りやるだけや」と口を揃えますが、まさしくその通りで、太鼓も笛も鉦も、その点は大差ありません。後は、出来ることを上手く表現し得るようになるかという、そこから個人の技量の話になってきます。

 太鼓は、やはり歌を歌いもって、竹の切れ端をバチとして、板などをペシペシ叩きながら稽古します。歌に手を付けていく感じです。例えば、「海士の衣も」という節に対して、「テンテンテントコトコテンテン」とバチを動かすのです。これも普段の練習が物を言うので、浅井光三氏は日頃から指先で膝を弾いたりして、手に癖をつけていたそうです。

 なお、曲によっては、太鼓の役割に、先に打つ“オモテ”と後に打つ“ウラ”の別がありますが、初めにどちらを担当するか決めて、出来れば二人一組で稽古するのが良いとされます。稽古の段階で結局どちらも出来るようにはなりますが、とっさの時の打ち損じを減らす為です。オモテは出の音を司るので走らずきっちりとペースを作るように、ウラは遅れないようにすかさず入ってとどめの音をきちっと分かりやすく決めるように、と、後進は指導を受けました。

 笛は、音を出すまでにひと苦労ありますが、出せれば後は歌の通りに吹きます。堀氏と根角氏は、当時唯一の吹き手であった若林清次郎氏に師事。その運指を学びました。もっとも、入れ歯だった若林氏、稽古中はスースー、スースー言うばかりで、音が鳴っているやら何やら分からないこともしばしば。弟子達は難儀したそうです。二人の弟子の内、根角氏は技巧的で飾りの多い音色を好んだのに対し、堀氏は実直に精緻な節回しを心掛けており、右利きの根角氏、左利きの堀氏の構えの違いも相まって、好対照を成しました。

 ところで鉦は、「祇園ばやし」を除けば二丁吊りだけになりますが、これは習うものではなく、他の楽器、就中太鼓を経験した人に担当が回ってくるもので、全体のことをわきまえている人が、演奏の調子を合わせる目安を示す為に鳴らすものです。したがって、他所の講でも概ねそうかと存じますが、比較的芸歴の長い方が担当されます。演奏の際は、これもやはり「歌の通りに」ですが、要所要所で特徴的な固定の叩き方がある一方で、事細かな指示があるではなく、それよりも歌に沿って調子よく、それでいて太鼓や鉦に合わしにいくのではなく、独立した基準として叩くべしとされました。

2017.10.14

壬生六斎中興伝(3)

三 中興世代集結

 根角栄一氏は戦時中、学徒動員によって国鉄の運輸・運搬部門に所属し、機関車の中で労働をしていました。業務は過酷で、物資の乏しい時勢に真っ当な石炭はなく、現場に届けられるのは粉炭と呼ばれる粉々のものばかり、それも雨で濡れると燃えないので機関車が動かない、すると上役の機関士から怒られる、ハンマーで小突かれる、ただでさえ重労働の上にそんな八つ当たりをされてはたまったものではなく、氏はとうとう勤務をボイコットし、残された月給も貰わずじまいに終戦を迎えました。

 それでも命が助かっただけ良かったと言えるでしょう。同級生には中学生にして戦地へ赴いた者もおりましたが、結局誰も帰ってきませんでした。そう考えると、兵役に行っていた上田博一氏(こちらは学徒ではなく、成人として徴兵されたもの)は、非常に運が良かったわけです。ご本人やご家族にとっては勿論の事、その後の壬生六斎にとりましても。

 さて、終戦後、家業の染物屋を継いだ根角氏は、向かいで張り物屋をしていた堀啓三氏からある話を持ちかけられます。堀氏は根角氏と同級生。子供の頃から親しかったわけですが、彼が言うには、壬生六斎が新会員を募集しているので一緒に行こうとのこと。父親が町会長をしていた加減で、そういう地域活動の話が早く耳に入る立場だったのです。結果、根角氏は、堀氏に誘われて六斎を始めることになりました。

 しかし、当時の根角氏、六斎の“ろ”の字も知りません。見たことも聞いたこともありませんでした。父が広島から当地に移り住んで独立した家柄、壬生の事情には疎く、また伝統事に殊更関心もない家だったので、つい大人になるまで見過ごしていたのです。堀家もまた代々六斎に関わってきた家ではありませんで、似たようなもの。完全な新人組として、未知の世界に足を踏み入れた形となりました。

 そこで出会ったのが、浅井光三氏。歳は同じですが、学区が違うのでここで会ったのが初めてでした。壬生川通を挟んで当時東側は郁文学区、西側は朱雀第三(朱三)学区に分かれており、郁文学区の根角家と朱三学区の浅井家は、ほんの30メートル程しか家が離れていないのに顔も知らない仲だったのです。この浅井家は先の二人とは違い代々壬生六斎を継承してきた家系。戦争が終わり、心機一転六斎再開という段になって、成人になりなんとする光三氏が満を持して入会した格好です。浅井家は青物や乾物を商っていましたが、三男の光三氏は当時宮大工をしていました。

 光三氏にも一緒に入会した同級生がおりました。岩見芳一氏です。岩見家は浅井家の並びの家で、同じ町内。芳一氏は家を出て、円町でタバコ屋(駄菓子屋)を営んでいました。同級生繋がりで言うなら、上田博一氏に勧誘された岡村正一氏も同様。当時会社員でした。このほかに、漬物屋の出で、後に薬剤師となる西野氏がいました。世代順で言うと、上田博一氏、岡村氏、そこから一回り下の浅井光三氏、岩見氏、根角氏、堀氏、そして西野氏ということになり、この七名が新世代の中核となって、新壬生六斎を牽引していくこととなります。

 そして、その少し下に、吉江氏、建川氏、片岡氏、平野氏が続きます。かくして、昭和22年(西暦1947年)までの1、2回の募集で、壬生六斎の中興メンバーはほとんど揃うこととなりました。

2017.07.01

壬生六斎中興伝(2)

二 年寄衆

 講中再結集最初の活動は、昭和20年(西暦1945年)京都第一赤十字病院への進駐軍傷病兵慰問公演でした。時代背景を象徴するような依頼です。これに講衆の誰が何名参加したかまでは詳らかに伝わっていませんが、まだ新会員の募集をする前であったことから、その後の講中に在籍した戦前派を中心に組織して行ったものと解されます。

 この戦前派というのは、戦後加入者の中核からして大よそ親世代になります。実際、浅井音次郎氏と、後に会長となる浅井光三氏は親子で、講中休止の時にはまだ幼かった三男坊光三氏が、戦後に父から誘われて入会したものです。新人はこの光三氏と同年代が中心であり、当時二十歳前後。その彼らから“年寄衆”と呼ばれた戦前派達は、平均寿命の延びた現代の年齢観念以上に、例えば六十代でもお年寄りに見えたものでしょう。

 但し、ここで言う戦前派と年寄衆は同義ではなく、戦前から加入の講衆にも唯一年寄に扱われない人がありました。それは、先に挙げた浅井光三氏より一回り程年長の上田博一氏で、当時三十そこそこですから、さすがにこの時代でもまだ年寄とは呼ばれません。博一氏は出征から帰ってきての合流でした。元々は昭和13年(西暦1938年)時の名簿にも名を連ねている講衆です。

 その博一氏の父親が上田源次郎氏で、彼らもまた浅井氏同様親子で講に所属していました。この上田家と浅井家は代々壬生六斎を支えてきた家で、特に上田家は、博一氏の息子らもまた六斎で活躍し現在に至ります。先祖供養を趣旨とする集まりであり、且つはまた地域内での限定的社会活動であることから、かつては家単位で関わることが伝統的に多かった壬生六斎念仏講中ですが、両家はその名残を僅かながら今に伝えるものと言えるでしょう。

 上田源次郎氏は元青果市場の経営者で、“壬生源”と言えば地区内外に知る人ぞ知る人物でした。その逸話は枚挙に暇がなく、一例を挙げると、友人の借金の連帯保証人になって二度も破産しながら、二度とも経営を盛り返した、というのがあります。この話の括目すべき点は、破産の際、給金が支払えないからと暇を出したにもかかわらず、従業員が一人も去らなかったところ。余程の人望と信頼がないと成立しないことでしょう。現在の京都市交通局壬生操車場と中京警察署の敷地は、その青果市場を売却したものです。

 芸ものを得意としていた源次郎氏。「祇園ばやし」の棒振り、「獅子舞」の蜘蛛を歴任しました。棒振りの時は“鬼門切り”という、これは大相撲の弓取り式で見られるような所作で、これを取り入れているのが特徴でした。また、自身が蜘蛛を担当していたからでしょうが、棒振りの時も蜘蛛のスを撒いていました。後代の担当者もこれに倣った例があります。戦前からの連続性が一旦解消されている為、後進は結局、彼ら年寄衆を基準とするほかなかったのです。その意味で、源次郎氏の芸は一時伝承の集約された指標とされたことでしょう。

 この点は、笛の旋律についても強く言えることです。笛方は講中再開当時、若林清次郎氏一人しか残っていませんでした。そもそもが笛を吹ける人間は数が限られていたようで、若林氏がただ一人で壬生大念仏狂言の笛も守っていた時期があったと言います。壬生狂言に笛の導入されたのは明治期以降と大念仏講中の方から伝え聞きますから、間違いなく明治以前の生まれである若林氏の笛は、あるいはその始祖に近い形だったかもしれません。いずれにせよ、氏の旋律を六斎、狂言共に見倣うほかはなく、後にそれを受け継いだ根角栄一氏が今度は壬生の正統となっていくのです。ちなみに根角氏は、若林氏から江戸時代作の笛そのものも譲り受けています。

 ところで、伝承伝承と言っても書き残すものとてなく、音楽といっても西洋のように規則性を持たない性質上、六斎においては知識の伝達に最も有効適切な手段が根付いてきました。それは、歌です。壬生六斎における伝統継承の要は全て口伝なのです。その重要性を説き、併せて太鼓の技術を中心に指導したのが、浅井音次郎氏と、そして佐竹藤三郎氏でした。

 就中浅井音次郎氏の家は先述の通り代々六斎に深く関わってきたわけですから、とりわけ伝承には詳しく、また独自に家で預かっている道具類もありました。傘鉾との由来についても、その父・寅次郎氏から親しく聞かされており、また緻密に記憶を整理する性格もあって、出来るだけ正確に、且つ熱情を持って息子らに伝えたと言います。綾傘鉾の再開に際しても、上田博一氏と主導的役割を果たしましたが、残念ながら巡行参列には間に合わず、都大路に響く棒振囃子を共に謳歌出来ずに他界しました。

 佐竹藤三郎氏は、これまた記憶が鮮明な人で、歌と太鼓はなんでも出来たと言います。六斎の曲の伝授は、師と膝付きで相対し、歌いながら竹のバチで床板や木竹を打って行います。こういう稽古法自体の伝授も一種の遺産ではないでしょうか。ちなみに、家は酒屋をかつて営んでおり、新撰組がツケで買った時の証文が残っていたとか。

 この佐竹氏、先の若林氏、それに後輩の根角氏、堀氏はいずれも壬生川通より東の仏光寺通沿いに住まいが揃っていました。さらにこの一画にはもう一人、木村茂三郎氏という年寄衆もいました。この人は「四ツ太鼓」が滅法上手く、太鼓に跨るようにどっしりと足を開いて、且つはまた丸ごと抱え込むように腕を構えたら、目にも止まらぬ早業で打ったと言い、ある人がよく見たら上の段の二つしか打っていない時があったそうですが、そんなことがまるで気にならない位、観衆を魅了したとの逸話があります。但し、気難しく、後輩が頼みに頼んでやっと二度稽古に顔を出したのですが、後にも先にもそれだけしか参加しなかったそうです。

 年寄衆にはほかに、浅井英一氏という、鉦を主に担当していた人もありました。この人は、壬生狂言でも鉦を叩いていたそうです。壬生大念仏講中と壬生六斎念仏講中は全く別の団体ですが、ひとつ地域に存在する関係上、六斎にいる人は狂言を兼ねるのが通例でした。その際、やはり囃子を引き受けることもありましたが、それだけではなく、芝居の方もやっていました。

 こうして壬生六斎の伝統は、上田源次郎氏、浅井音次郎氏、若林清次郎氏、佐竹藤三郎氏、木村茂三郎氏、浅井英一氏ら年寄衆六名と、上田博一氏を筆頭とした新世代によって引き継がれていくのです。

2017.06.20

壬生六斎中興伝(1)

壬生六斎中興伝

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 これは、先の大戦後の壬生六斎念仏講中再興過程を、当時を知る講衆、浅井光三氏、根角栄一氏より得た証言に基づいてまとめた記録です。けだし、時代を経た先達の言はそれ自体が文化財であり、これは伝統の保存を第一義とする会にとり継承すべき財産の一つです。語り伝うべき記憶遺産が将来に亘って共有されんことを願って、ここに公開致します。

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一 戦前

 昭和13年(西暦1938年)、壬生六斎念仏講中は活動を休止しました。この年の在籍者は、名簿上23名が確認出来ます。戦時中、大人且つはまた志願した少年は戦地に行きました。幸いにして、無事帰国の後に六斎に戻った人もいます。あるいは、学徒動員の一環で労働に出た子が、終戦後の募集に応じて講中入会を果たしました。もっとも、終戦即行事再開とはゆきませんで、人もおらぬ中、先述の新会員募集をぼつぼつやっていくことになります。

 戦時下にあっては地域の様相も一変し、例えば、壬生川通は今でこそ車が両面を行き交う程の道幅ですが、かつては自転車ですれ違うのもやっとだったと言います。それが、類焼を免れる為の疎開と称し、沿道の住民が当時の100円程度を貰って立ち退きを余儀なくされた結果、現在の道路へと変貌していくのです。疎開者の中には講中の木村茂三郎氏もあり、宅は壬生川通から仏光寺通へと移ったのでした。

 ところで、戦前の壬生六斎がどのようであったのか、当時の講衆が存命していない現状、直接詳らかに聞くことは出来ませんが、民間史家・田中緑紅氏によると、「日露戦役の頃には相当にやっていた」(「六斉念仏と六斉踊」昭和34年9月10日)と言い、浅井光三氏に曰く、これは自身の父親らこの時の年寄衆から得た証言のようで、一聴に値します。また、田中氏は前掲書所載の棒振りの写真を別本(題名を失念しました)にも使用していますが、その記述によれば昭和8年(西暦1933年)に上写真を撮影したらしく、戦前に舞台を観覧したのは確かなようです。ここで生きてくるのが、前掲書中にある「種蒔三番叟と願人坊を得意とし」という記述です。

「種蒔三番叟」は現在途絶えている演目です。同書にはほかに「玉川」の名も曲目欄に見えます。いずれも失われてしまった曲ですが存在したことは確かで、うち「種蒔三番叟」については浅井音次郎氏が生前、「教えなあかんなあ」と息子光三氏に言い残しつつも、遂に伝えそこなったものです。結局、いずれも戦後に上演した記憶が誰にもなく、幻の曲となっています。“得意”としていたかどうかは筆者の主観による所が多いと存じ、確定出来ませんが、田中氏は少なくとも見た可能性は高いと言えるでしょう。

 ともあれ、明治から昭和にかけて活動自体が滞りなく続いていたことは講中所蔵の大福帳に徴しても明らかで、戦争という緊急事態さえ無ければ、従事する人間が大幅に入れ替わることもなく、果たしてそれでその後の継承に全く憂いなしとは易々と肯んぜられないにしても、あからさまに休止の決断を急ぐことまではなかったかと存じます。

 戦後、休止前から加入の者で残ったのは、わずか7名でした。

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