コラム

2017.06.20

壬生六斎中興伝(1)

壬生六斎中興伝

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 これは、先の大戦後の壬生六斎念仏講中再興過程を、当時を知る講衆、浅井光三氏、根角栄一氏より得た証言に基づいてまとめた記録です。けだし、時代を経た先達の言はそれ自体が文化財であり、これは伝統の保存を第一義とする会にとり継承すべき財産の一つです。語り伝うべき記憶遺産が将来に亘って共有されんことを願って、ここに公開致します。

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一 戦前

 昭和13年(西暦1938年)、壬生六斎念仏講中は活動を休止しました。この年の在籍者は、名簿上23名が確認出来ます。戦時中、大人且つはまた志願した少年は戦地に行きました。幸いにして、無事帰国の後に六斎に戻った人もいます。あるいは、学徒動員の一環で労働に出た子が、終戦後の募集に応じて講中入会を果たしました。もっとも、終戦即行事再開とはゆきませんで、人もおらぬ中、先述の新会員募集をぼつぼつやっていくことになります。

 戦時下にあっては地域の様相も一変し、例えば、壬生川通は今でこそ車が両面を行き交う程の道幅ですが、かつては自転車ですれ違うのもやっとだったと言います。それが、類焼を免れる為の疎開と称し、沿道の住民が当時の100円程度を貰って立ち退きを余儀なくされた結果、現在の道路へと変貌していくのです。疎開者の中には講中の木村茂三郎氏もあり、宅は壬生川通から仏光寺通へと移ったのでした。

 ところで、戦前の壬生六斎がどのようであったのか、当時の講衆が存命していない現状、直接詳らかに聞くことは出来ませんが、民間史家・田中緑紅氏によると、「日露戦役の頃には相当にやっていた」(「六斉念仏と六斉踊」昭和34年9月10日)と言い、浅井光三氏に曰く、これは自身の父親らこの時の年寄衆から得た証言のようで、一聴に値します。また、田中氏は前掲書所載の棒振りの写真を別本(題名を失念しました)にも使用していますが、その記述によれば昭和8年(西暦1933年)に上写真を撮影したらしく、戦前に舞台を観覧したのは確かなようです。ここで生きてくるのが、前掲書中にある「種蒔三番叟と願人坊を得意とし」という記述です。

「種蒔三番叟」は現在途絶えている演目です。同書にはほかに「玉川」の名も曲目欄に見えます。いずれも失われてしまった曲ですが存在したことは確かで、うち「種蒔三番叟」については浅井音次郎氏が生前、「教えなあかんなあ」と息子光三氏に言い残しつつも、遂に伝えそこなったものです。結局、いずれも戦後に上演した記憶が誰にもなく、幻の曲となっています。“得意”としていたかどうかは筆者の主観による所が多いと存じ、確定出来ませんが、田中氏は少なくとも見た可能性は高いと言えるでしょう。

 ともあれ、明治から昭和にかけて活動自体が滞りなく続いていたことは講中所蔵の大福帳に徴しても明らかで、戦争という緊急事態さえ無ければ、従事する人間が大幅に入れ替わることもなく、果たしてそれでその後の継承に全く憂いなしとは易々と肯んぜられないにしても、あからさまに休止の決断を急ぐことまではなかったかと存じます。

 戦後、休止前から加入の者で残ったのは、わずか7名でした。

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