綾傘鉾囃子方

 壬生六斎念仏講中には、祇園祭(ぎおんまつり)で綾傘鉾(あやがさほこ)の囃子方(はやしかた)として活動する一面もあります。そこで、以下その活動内容について紹介してまいりたいと存じます。

 なお、祇園祭のこと自体を詳しくお知りになりたい方は、京都・祇園祭ボランティア21制作・山鉾連合会協力によるサイト京都祇園祭や、八坂神社様のサイトをご参照下さい。また、綾傘鉾については、お町内が公式サイトを出していらっしゃいますので、そちらも併せてご覧下さいませ。

巡行する綾傘鉾囃子方一行

〈四条通へ向け室町通を北上する綾傘鉾囃子方一行(平成14年(2662年・西暦2002年))〉

綾傘鉾囃子方とは

 まずは、綾傘鉾の囃子方について簡単にご紹介します。

 綾傘鉾とは、大きな傘と稚児(ちご)、棒振り(ぼうふり)等で構成される行列です。巡行中には音楽と踊りが演じられます。この舞楽を担当するのが囃子方(はやしかた)です。つまり、壬生六斎の役割は、綾傘鉾の音楽隊だということです。

 囃子方は、棒振り巡柱(じんちゅう)、太鼓方笛方鉦方で構成されます。棒振りとは、その名の通り“棒”を振る者、巡柱とは、太鼓を持つ者と打つ者の二人一組のことです。いずれも覆面をして衣装を着用し、踊りを見せるのが役割です(上掲画像において、左手前の赤髪が棒振り、中央奥で面の見えるのが太鼓の打ち手、その右が受け手)。残りの者達は音楽、すなわち囃子(はやし)を演奏します。

 このように踊り付きの祇園囃子を演奏するものは、天明の大火後に固定された山鉾全34基の内でも数少なく、2基しかありません。ちなみに、山鉾の形には、数の多い順に、舁山(かきやま)・鉾(ほこ)・曳山(ひきやま)・傘鉾(かさほこ)・船鉾(ふねほこ)の5類型があります。山・鉾いずれも時代とともに大型化しているため、傘鉾の徒歩巡行形式は、“山鉾の非常に古い形態を残している”(山鉾連合会発行のパンフレットほか)などと表現されることがあります。

壬生六斎と綾傘鉾

細記の綾傘鉾の写し

 壬生六斎念仏講中は、祇園祭関連の行事に参加する時のみ「綾傘鉾囃子方保存会(あやがさほこ はやしかた ほぞんかい)」となります。つまり、関わっている人間は同じでありながら、組織の目的や会計等が変わるということです。

 このような形は、昭和48年(2633年・西暦1973年)の“棒振囃子(ぼうふりばやし)復活宣言”(山鉾連合会後援)と、そして昭和60(1985)年の綾傘鉾囃子方保存会発足を経て定着しました。

 では、そもそもなぜ壬生六斎が出向するのでしょうか。その根拠の史料的裏付けの一つとなっているのが、「祇園会細記」(宝暦7年(2417年・西暦1757年))という本です。これは、江戸時代に出版された祇園祭のガイドブックなのですが、非常に詳細な記録であり、まずもって祇園祭研究の基本書ともいうべき史料です。ここに、以下のような説明があります。

[古例] 赤熊(しゃぐま)の棒振(ぼうふり)隠太鼓(かくしだいこ/おんだいこ)はやし方ハ、壬生村より出る。七人之有り。児三人床机持ハ町内より出る。

 この記述によって、壬生と当鉾の関わりのあったことが証明されるわけです。

 ところで、文中には「壬生村」とあるのみなので、一体どこから「六斎」が出てきたのか不思議に思う方がいらっしゃるかもしれません。この辺りの感覚は、地元の事情に通じていないとちょっと想像のつきにくい部分でしょう。まして、組織や概念を分化して整理する現代人の感覚では。

 そこで、あえて現代的・理論的に説明すると、“限られた地域内のことだから囃子の演奏できる人間は限られている、そしてそれを専門に担当しているのは壬生六斎に携わっている人間である、よって、壬生村から行ったということは、すなわち壬生六斎が行ったことと同義なのだ”、ということになります。

 この点、壬生狂言というもう一つの地元郷土芸能でも、結局囃子を演奏していたのは六斎を兼ねている人達だったことと符号します。現在は違いますが、ほんの半世紀ほど前までは、六斎の人は狂言を兼任するのが普通だったのです。あまつさえ、狂言に笛の加わったのは近代に入ってからです。したがって、かつての実情に則して言うならば、“壬生から出た囃子方なのだから、当然に六斎もやっていた人達なのだろう”という結論になるわけです。

 もっとも、宝暦7年以前にいつどうして壬生が傘鉾と関わるようになったのか、その直接の端緒は、歴史的資料はおろか言い伝えすらも残っていない今や確定することができません。ですが、状況証拠による因果関係の証明として、以下の説をこちらでは提示しておきます。

 伝承的側面から考える説として、壬生には元祇園社(梛神社)という神社があり、これはその名の通り祇園社(現在の八坂神社)のご祭神たる牛頭天王(現在のご祭神は素戔嗚尊)を本朝へお迎えした際、八坂の社壇が完成するまでの間にお泊りになった跡地なのですが、いざお遷りあそばす段、壬生の者が大傘を仕立て、棒を振って露払いしてお送りしたと神社では言い伝えているので、これが関係しているのではないかということ、また合理的理由から考える説として、芸能事が盛んで、かつ位の高い寺を擁している土地柄と、労力供給地として最適な近郊農村という立地条件が揃っていたということなどが挙げられます。うち、前者の説は特に傘鉾と関係することの説明になるでしょう。また、後者の説は、特に綾傘鉾が寄町(よりちょう。鉾町を支援する町)を持たない町であったことと、何らかの繋がりを見つけられそうです。

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