壬生六斎とは

壬生六斎念仏踊り(みぶろくさいねんぶつおどり)」とは、京都市の「壬生(みぶ)」という地域で行われる「六斎念仏踊り(ろくさいねんぶつおどり)」のことです。略して「壬生六斎(みぶろくさい)」といいます。

 壬生六斎がやっていることは、今風に言うと、ヒット曲のカバーを演奏するライブ・パフォーマンスといった所です。道中でやることもありますから、その場合はストリート・ライブにもなります。

 こういうことをおおよそ江戸時代中頃からやっており、そして今なおその当時の形式を保って続けています。江戸時代のヒット曲ですから、演奏するのは地歌(じうた)や長唄(ながうた)といった今は昔の伝統的な邦楽で、使用する楽器は太鼓や鉦、笛といった和楽器です。

 これらのレパートリーの中には、音曲以外にも様々な芸の含まれるものがあります。特に「獅子舞(ししまい)」の芸はむしろ六斎のトレードマークともいえる出し物で、獅子が様々なアクロバットを披露した後、蜘蛛と対決するという一連の物語によって、六斎の舞台は最高潮の盛り上がりを見せるのです。

 動画は「獅子舞」の一場面。大技“碁盤乗り”を終えて眠る獅子のもとへ忍び寄る蜘蛛。

“壬生”について

「壬生六斎(みぶろくさい)」の「壬生(みぶ)」というのは地名です。したがって、桂(かつら)の六斎なら“桂六斎”、下津林(しもつばやし)の六斎なら“下津林六斎”と呼ばれます。六斎は幾つもの土地によって受け継がれているのです。

 このうち壬生は、継承団体中で最も京の都に近い位置にあり、かつては「壬生村(みぶむら)」という名で呼ばれて、洛中の西の端の近郊農村として栄えていました。幕末には新撰組が屯所を置いたことでも知られています。

 隣村との境界はおおよそ、北は三条通、南は松原通、東は櫛筍通、西は西大路通一筋東とされていますが、実質「壬生寺(みぶでら)」の周囲十数軒ほどで本郷を形成していました。今の町名で言うと、壬生賀陽御所町(みぶかようごしょちょう)、壬生辻町(みぶつじまち)、壬生梛ノ宮町(みぶなぎのみやちょう)辺りが特に古くからの中心地区です。

 交通機関で言うと、阪急電車「大宮」駅・京福電車「四条大宮」駅から南西、京都市バス「壬生寺道」停留所から南に広がる地域になります。

 この辺りの地元の人々によって守り伝えられてきたのが、壬生六斎です。

“六斎念仏”について

六波羅密寺の空也上人

「六斎念仏踊り(ろくさいねんぶつおどり)」の名前は、どこからきているのでしょうか。

 そもそもの起こりは、今からざっと千年位前に空也上人(くうやしょうにん)というお坊さまが、「もっと分かりやすくお念仏を広める方法はないものか」と工夫され、手持ちの瓢箪を叩きながらメロディーに乗せてお念仏を唱えられたことにあると伝えられます。後の世に言う「踊念仏(おどりねんぶつ)」の始まりです(写真は、六波羅密寺の空也上人像。口から出た念仏が仏様になっている様子《「原色日本の美術」第9巻、小学館より》)。

 かかる踊念仏の流れの中で、「六斎念仏(ろくさいねんぶつ)」という呼称も登場しました。その特徴は、複数の人々がコーラスのように念仏を唱和し、手持ちの鉦を鳴らすという、仏教行事の中でも非常に音楽性の豊かなものです。

「六斎」というのも元々は仏教用語で、毎月8日、14日、15日、23日、29日、末日は特に厳しく念仏のお勤めをしなければならないという、「六斎日(ろくさいにち)」の考え方からきているとされます。

 この六斎念仏をやっていた内の京都周辺の人々が、さらにそれらの楽器を使って念仏以外の流行り歌を演奏し始めたのが江戸時代のこと。これが今に言う「六斎念仏踊り」です。わざわざ“踊り”と付けているのも、従来のものと区別するためです。時に「六斎踊り」とか「芸能六斎」と呼ぶこともあります。

 なお、本来の「六斎念仏」も今なお続いており、こちらは「鉦講(かねこう)」とか「念仏六斎」と呼ばれています(鉦講について詳しくはこちらをご参照下さい)。

“講中”について

 壬生六斎を受け継いでいるのは、地元壬生の人々を中心とした有志の団体です。これを「壬生六斎念仏講中(みぶろくさいねんぶつこうちゅう)」といいます。

 メンバーは、仕事や学校に通いながら、余暇を見つけては稽古に励み、行事に参加します。年齢層は幅広く、上と下とでは祖父と孫以上の開きがあります。しかし、共通の興味を持って集まっているので、皆和気あいあいと活動を楽しんでいます。

 昨今は、縁あって壬生の外から通う人もあり、一方で親子代々続けている人が少なくなりました。どちらの郷土芸能もそのようですが、後継者確保はこれから先の悩ましい問題です。

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