綾傘鉾棒振囃子
傘鉾の囃子には踊りが付きます。そもそも“囃子”ないし“囃す”という意義の中に、踊りや仮装等の一連の趣向までが含まれているのです。ただ、、鉾が乗り物化して以来、踊りありきの囃子を持つのは傘鉾2基のみとなっています。
綾傘鉾では、この踊り付きの囃子を"棒振囃子(ぼうふりばやし)"と呼んでいます。こちらのページでは、この棒振囃子についてご紹介して参ります。なお、踊りの付かない"祇園囃子"については別頁をご覧下さい。
棒振踊り
棒振囃子は、鉦、太鼓、笛の楽団演奏に、棒振り(ぼうふり)一名と巡柱(じんちゅう)すなわち太鼓持ち・太鼓打ち二名による踊りが付随するものです。よって、踊りは祇園囃子の演奏に合わせて為されます(但し、後述する通り、いわゆる一般的な祇園囃子ではなく、あくまでも"棒振囃子"としか称しようのない、変形型の祇園囃子ではあります)。
舞曲を行う場所
この踊りは巡行中の所々で立ち止まって行います。「祇園御霊会細記」(宝暦7(1757)年版)によると、「棒振の芸ハ、四条高倉東へ入町雑色前(くじ改めのこと)、御旅所、大雲院前(移転前は四条寺町下ル東側にあり、ここに武家の桟敷が組まれていた)、松原因幡薬師前、町内、右之所にて舞曲有」と記されていますが、巡行順路の変わった現在は、くじ改め、御旅所、四条河原町辻、綾傘鉾保存会後援会席前(御池御幸町西入ル南側)、町内大原神社前で行っています。これに加え、ほかにも数か所即興で踊ります。
棒振りと巡柱
棒振り(ぼうふり)一名と巡柱(じんちゅう)二名の三役は、自らも人にあらざる鬼形じみた扮装をまとい、神に近しい存在として厳然と振る舞います。ハレの場において、その異彩を放つ風貌こそが厄疫に相対する威力の表れと信じられてきたのです。
棒振りは、赤熊(しゃぐま)をかぶり、顔を白布で覆い、金と紺の鱗文様表着に白たすきを掛け、脛の上辺りで裾を括った橙色地の袴を着て、足袋の上から草鞋を履いた出で立ち。扱う棒は長さ1メートル半強の紺白の横縞模様で、両端に50センチ弱の色とりどりな紐を付けたものです。棒振りは、多くの祭礼行列で天狗の形をとるものと似た趣旨で、天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)御降臨の際に、先導して棒を振り道中の露払いを務めた猿田彦大神(サルタヒコオオカミ)の思想に連なるものとされます。
巡柱は、黒熊(こぐま)をかぶり、太鼓持ちはべし見面、太鼓打ちは飛出面をかけ、白布で顔を覆い、金と紺の表着と白地の大口袴を着て、足袋の上から草鞋を履いています。面の目玉はいずれも金色で、これは人間から人間ならざる存在への覚醒を意味します。
各々の衣装に共通する鱗文様は魔除けの効果ありとされる図柄で、綾傘鉾では好んで使用されてきました。この文様は、彼らの役割を強調するとともに、厄除け効果の増大をも狙ったものでしょう。
棒振囃子曲一覧
棒振囃子の曲は、譜本「明治拾七年六月改撰 祇園囃子 綾傘鉾町」所載の祇園囃子とは別枠のものばかりです。逆に言えば、囃子演奏のみで行う"祇園囃子"に、曲と一体の演出としての踊りは今のところ付いていません。
ほかにも"祇園囃子"の時と異なる点がいくつかあります。まず、笛は能管ではなく篠笛を用います。また奏法の上でも、鉦は「ながし」や「つくし(地囃子)」において上の縁を跳ね上げず、太鼓は全体的に直線的な拍子を刻むなどの違いがあります。
綾傘鉾の囃子が他の山鉾と毛色の違う独特なものとして紹介されるのは、このような点が強い印象を残すからでしょう。
曲名 | 説明 | 笛 | 返し |
---|---|---|---|
はつかざり | 出端。太鼓のみ。 | (なし) | × |
からこ | 大和舞 | ○ | |
つなぎ | 上ヶ是ヨリ流シニ渡ル | × | |
しき | 翁 | ○ | |
みぶのあさひ | 旭 | ○ | |
しし | 錦 | ○ | |
おどりのながし | 主として巡柱の踊り部に対応。 | ながし | ○ |
おどりのつくし | 鉦は地囃子(一部変形)。 | つくし | ○ |
ぼうのながし | 棒の速回し部に対応。 | ながし | ○ |
あげおさめ | 棒振囃子の締め。 | 若の変形 | ○ |
かぐらばやし | 若三遍以上の後や巡行帰町時、日和神楽時に演奏。 | かぐらばやし | ○ |
わたり | 渡り囃子。行きの巡行道中で随時演奏。 | わたり | ○ |
ちょうない | おどりのながしに渡る。巡柱のみの冒頭演奏。 | (なし) | × |
"笛"の欄に記載しているのは、"祇園囃子"において同じ旋律を使用している曲名です。
なお、少し紛らわしいのですが、上記のうち「はつかざり」から「あげおさめ」は、踊りを伴わずに囃子だけで演奏することもあります。つまり、“棒振囃子”でありながら“祇園囃子”のように演奏するわけです。特に宵山で座って演奏しているときは、一見どちらをやっているのか分からないかもしれません。そういうときは、是非内容で聞き分けて下さい。
棒振囃子と壬生六斎
なぜ、綾傘鉾の棒振囃子は、前述のように一般の祇園囃子とは違う独特なものとなっているのでしょうか。例えば、お迎え提灯等で発表される祇園万灯会の「鷺踊」は、かつて存在した「鵲鉾」の再現として鷺の格好に扮した者が、現代に伝える山鉾の祇園囃子を背景曲に踊るものですが、このように通常の祇園囃子と合わせて踊るやり方も十分あり得るわけです。
ところが、綾傘鉾ではこの手法を採っていません。というのも、綾傘鉾の棒振踊り及び囃子は、壬生六斎念仏踊りの演目「祇園ばやし」と密接に繋がっているからです。もっと言うと、壬生六斎の棒振踊りや「祇園ばやし」と綾傘鉾の「棒振囃子」とは、ほとんど同じものであり、異なるのは使用する太鼓とそれに応じた太鼓方の演奏だけなのです。
元来、壬生村と呼ばれた当時から壬生の者が棒振りと囃子を傘鉾2基で務めてきた一方、地元壬生でも六斎踊り内で「祇園ばやし」という演目を伝えてきました。その後、明治期以降に両傘鉾が休み鉾になるに及び、その再始動の際、壬生六斎の前掲演目を基礎として綾傘鉾を再現する運びとなった経緯があるのです(壬生六斎の「祇園ばやし」についてはこちらを、壬生六斎と傘鉾の関係についてはこちらをご参照下さい)。
以上の点より、綾傘鉾の棒振囃子が独特の個性を有するというのは、すなわち壬生六斎流の祇園囃子を継受しているから、とも言い換えられるわけです。結果、山鉾の囃子の中でやや浮いて聞こえるときもありましょうし、“テンポが速い”などと時に批判も浴びます。ただ、棒振りと囃子とを一体として特に棒を早回ししていく演出は、結局壬生六斎という以上の答えに至らないのが現実ですし、しかも歴史的な裏付けがはっきりしているので、それで踊りの時の囃子は祇園囃子と別のものにあえてしているのです。
もちろん、囃子方の我々にとって現今の綾傘鉾棒振囃子は、壬生六斎念仏講中が先祖より長年に亘って守ってきた伝統の帰結であり、一朝一夕で成しえない完成された型として誇りとするところです。
ちなみに、宵山のときの棒振踊りは、巡行時より曲がやや長めということもあって、棒振りが中途から踊って登場するなど、壬生六斎の「祇園ばやし」に近い演出を行っています。